■講 演
諫早干潟の残した課題と日本の干潟
諫早干潟緊急救済本部代表 山下弘文
「三番瀬を守る署名ネットワーク」は1998年3月28日、「第2の諫早にするな!“みんなの干潟 三番瀬”春の大集会」を船橋市内で開きました。集会では山下弘文さんが「諫早干潟の残した課題と日本の干潟」というテーマで講演してくれました。
以下は山下さんの講演内容です。
1.私自身を育ててくれた干潟
こんばんは。諫早干潟緊急救済本部の代表をしている山下です。まさかこんなにたくさんお集まりになるとは思っていませんでした。これも、やはり昨年(1997年)4月14日のギロチン効果だと、農水省にお礼を申しあげなければなりません。
諫早湾のことについて話をしだしますと、時間が足りません。いままでいちばん長く話をしたのは長崎大学水産部の学園祭のときで、5時間しゃべりました。本日は持ち時間がわずか1時間ですので、どこまでしゃべれるかわかりませんが、今後の運動に少しでも励みになればと思いまして、50分ほど話をさせていただきます。そして残りの10分間は、まだ諫早湾の干潟を知らない方がおられるようですので、スライドを見てもらいたいと思います。
私が諫早湾の干潟の問題にとりくみだしたのは、そうとう古くなります。干潟とつきあいだしたのは子供の時からです。私は太平洋戦争の時に小学生でしたが、そのときは中国にいました。南京、上海、バンプーというところにいました。ご承知かもしれませんが、中国大陸は干潟です。ムツゴロウもいます。有明海にいるのと同じ種類です。子供の時はそこでずっと育ちました。小学生の頃は、私は頭がよくて、昔は甲乙丙丁でしたが、オール丁でした。これはたいへんむずかしいのです。オール甲をとるのはやさしいのですが、オール丁というのは大変むずかしいことです。オール丁で6年間すごしました。日本にひきあげてきてから、旧制中学校の試験を受けましたが、たった一人だけ落第しました。おかげで、昔の高等科1年生という授業も受けたことがあります。
しかし、たったひとつだけ私ができたのは生物です。でも、どういうわけか、授業にはまったく役に立ちませんでした。実はクリークで大きな魚を釣りました。いま考えると、らい魚です。それを釣りあげて、大事に家にもって帰って池で育てました。実はそれがひきがねになりました。非常に自閉症児で、友達も一人もいないし、学校では2時間目に弁当を食べて、あとは遊んでるという、そういうことを6年間やりました。しかし、生き物だけは好きでした。とった生き物はすべて解剖して遊んでいました。そういうことで、実は干潟が私自身を育ててくれたのです。
2.開発反対運動を2、3人ではじめる
そして、たまたま学校を卒業して仕事をしたのが、有明海の佐賀県水産試験場でした。そのときに2度目に干潟に会いました。
その当時の有明海はすばらしいものでした。有明海全域の12地点を定点観測するということで、毎月1回、必ず海洋調査をやりました。どこも渡り鳥だらけでした。そして、どこをみても、干潟にはムツゴロウがとびはね、雁(かり)たちもどれほどいたのかわからないくらいで、ものすごい量の生き物たちがひしめいていたことをおぼえています。それが2度目です。
それから、少し変なことになりまして、昔、総評という労働組合の全国組織がありました。総評は、“むかし陸軍、いま総評”といわれるぐらいすばらしいものでした。その総評のオルガナイザーを1年ほどやってくれと頼まれました。それをやったのが運のつきでして、23年間もやりました。おかげさまで社会党の党員でもあったわけです。
そういう中で、仕事の関係で諫早に行ってくれといわれて諫早に行きました。そして3度、干潟に会ったのです。本当になつかしかったですね。ちょうど私が買った自宅が山の手の中腹にありまして、私の家からみると、ちょうど前に多良岳という県立公園があって、右手が雲仙国立公園、そして左手が諫早市の市街地、目の前に諫早平野が広がっていました。そして、右手には諫早湾の干潟も広がっていました。まさに箱庭だったのです。
着任してすぐ気づいたのは、その干潟を1万900メートルの大堤防で閉め切るということでした。そういう計画があるということを知って、これはたいへんなことだと思いました。簡単にいえば、“他人の箱庭に勝手に手をつけるな”ということです。そういうことで、反対運動をはじめました。
当時、仕事が諫早市地区労の事務局長であり、社会党の党員ということでしたので、地区労の執行委員会や社会党の会議の中で「ぜひ反対運動をやろう」と提案したのですが、ダメですね。全部が賛成と言うのです。
実は、そのころ反対をしていたのは、湾内の12漁協1300人でした。しかし、これも、もうほとほと疲れ切っていたのです。昭和27年からの開発構想でしたから……。ほとほと闘いつかれて“お金しだいでは海を売ってもいい”という状況だったのです。それで、労働組合も社会党も共産党も全部賛成だったのです。
仕方ないので、市民運動というか住民運動をやるしかないというので、「諫早の自然を守る会」というのをつくりました。代表は野呂邦暢(くにのぶ)さんという、諫早市出身の芥川賞作家です。野呂さんが芥川賞をとったのは、「草のつるぎ」という作品でした。それは自衛隊の経験で、私はあまり評価していません。私がいちばんすばらしいと思っているのは、「鳥たちの河口」という作品です。これも芥川賞の候補になりましたが、今でも文庫ででていますので、是非読んでほしいと思います。
その野呂さんが諫早湾の開発は絶対反対だということを聞いたので、たずねていって「いっしょにやりましょう」と言ったら、「やろう」ということになりました。
野呂さんの文章でよびかけ文をつくって、2000枚以上配りました。しかし、集まらないものですね。たった2、3人です。しかも、全部よその者です。地元の者はひとりもいません。仕方がないので運動をはじめました。ですから、最初から圧倒的多数の賛成派を前にしてまったくの少数派で運動をはじめたわけです。
3.いったんは開発計画を中止に追い込む
会則はつくりませんでした。つくったのはスローガンです。それは「負けてもともと、勝てば大事(おおごと)」です。国を相手にケンカするわけですから、勝つわけがありません。しかも、2、3人でです。だから、負けて当たり前です。勝ったらたいへんなことになるということでやりました。もうひとつは、「計画にも反対、工事中も反対、できあがってからも反対」で、この2つがスローガンでした。
それからはじめた運動ですから、たいしたことはできません。毎晩、土曜日の夜にわたしの家に集まって、焼酎を飲んでだべるというのが、3、4年つづきました。
しかし、変なもので、佐賀県の漁民とのつきあいができました。非常に寒い冬の夜だったのですが、諫早湾の問題で話しあいましょうということで、隣の竹崎という漁村部落に行きました。夕方からというのに、一人も集まらない。1時間たってようやく10人くらい集まりました。「話をしましょう」と言ってたちあがったとたんに、いきなり「お前たちは共産党か社会党か。選挙のために来たのなら帰れ!」と言われました。大ショックでした。「そうじゃありません。諫早湾の開発計画でいろいろな問題があるので、ぜひその問題点を知って、いろいろ知恵をかしてほしい」と言いました。1時間近く話をしたところ、10人ぐらいに囲まれて、「きょうは帰さん!」と言われました。それで、そのまま酒を飲んで、魚やうまいさしみを食べて一晩交流しました。実はこれがひきがねになりました。
その後、漁民の反対運動は大きく盛り上がりました。佐賀、福岡、熊本の3県の漁民が立ち上がってくれました。しかし、その時は長崎県の漁民はまだ立ち上がっていませんでした。なんとか長崎県内の漁民をたちあがらせなければいけないというので、いろいろと働きかけました。
実は、島原半島の漁協と佐賀県の漁協が裁判ざたをおこしていました。諫早湾の入口のすぐそばの海底に「マエヤの州」というすばらしい州(す)がありますが、そこはタイラギの名産地です。ここの漁業権をめぐって、2つの漁協が裁判で争っていました。そういう中で反対運動がおこりました。佐賀の漁協の青年部が島原の漁協の青年部のところに行って、「今は言い争っているばあいではないのではないか。いちおうお互いに手を結んで、とりあえず諫早湾の開発を中止させよう」という妥協ができて、お互いが裁判から手をひきました。そこから、島原半島の12漁協の漁民のみなさんも立ち上がってくれて、4県の漁民が立ち上がることになりました。
それでいっきょに運動が盛り上がりました。開発面積は1万94ヘクタールで、開発の目的は水資源開発、名称は「南部地域総合開発計画」(南総計画)だったのですが、私が運動にたちあがってからちょうど10年目の1982年にこの「南総計画」を中止においこみました。がっくりきました。まさか中止になるとは思っていませんでしたから。「中止になった」と聞いたときは、肩の荷がスーとおりて、「あー、明日から俺は何をしたらよいか。困ったな」と思いました。
4.「水害対策」を名目に干拓計画が復活
しかし、捨てる神もあれば救う神もあります。救ってくれたのが農水省の構造改善局です。
時の農水大臣は金子岩三さんでした。この人は、今年(1998年)2月の長崎県知事選挙で当選した金子原二郎さんのおやじさんです。今の息子はダメですが、おやじさんはすごい人でした。非常に骨のある人で、漁民あがりです。佐賀県の有明漁連の田中茂さんという、これまた気骨のある組合長さんがいて、この人と金子岩三さんで諫早湾開発の縮小問題を話し合いました。その席上、金子さんは、構造改善局長をそばにおいて、「田中さんよ。官僚というのはウソばっかり言うやっやけん、あんたはダマされんことせんばばい」と言いました。これは非常に有名な話で、田中茂さんの自伝の中にも書かれています。それくらい骨のある人でした。だからこそ、1万94ヘクタールの大開発計画を中止させることができたのです。
話を元にもどしますと、構造改善局には、当時、800人くらいの干拓技術者がいました。最後のよりどころの八郎潟の干拓が終わった。もうあとはどこを干拓するか。諫早湾しかない。もしこれが中止になったら800人が失業者になる。−−ということになっていました。その時に、金子岩三大臣が「農水省の失業対策やな」ということで、「仕方なか。諫早湾は水害があるので、その水害を防ぐために規模を縮小して水害対策をもとにしてやろうではないか」というふうに言ったのが、今のはじまりです。その時にだまっておいてくれたらよかったのです。その際に金子さんが対案として出したのが、実は当時、私が武蔵野書房から出したアセスメント批判の本がありまして、そこで「ムツゴロウ構想」という素案を出しておきましたが、その素案をそのまま記者会見で読んでしまったのです。私も失敗しました。結局、縮小して水害対策ということでやろうということになりました。1982(昭和57)年のことでした。
そこで、閉め切り面積をどれだけにするかということで、農水省は手早く11名の学者に「諫早湾防災対策検討委員会」というのをつくらせて検討させました。不思議な話ですが、普通は検討委員会というは1、2年ぐらいかかるはずですが、7カ月目で中間報告書を出しました。中間報告書は1983年に出ました。しかし、中間報告書は、4600ヘクタールと3900ヘクタール、3300ヘクタールの3案併記でした。結局、結論を出しきれなかったのです。
佐賀、福岡、熊本、島原半島の漁民は、「3000ヘクタールだったらOK」と言いました。3000ヘクタールというのは、ちょうど大潮のときに干出する干潟の面積です。そこに堤防をつくるのだったら賛成だといったのです。
いずれにしても、平行線をたどって解決がつかなくなりました。仕方がないで、苦肉の策で、佐賀と福岡の2人の国会議員に仲立ちをしてほしいということで、国会議員にまかされました。
いろいろとすったもんだしたのですが、佐賀の国会議員の三池信さんが突然思い出しました。大野伴睦という非常に有名な自民党の人がいましたね。あの人は、こういう場合に解決するときに、足して2で割るいう方式を使いました。ですから、3900ヘクタールと3000ヘクタールを足して2で割ると、3500ヘクタールになります。本当は科学的に閉め切り面積を決めなくてはいけないのに、実はそうではなくて、まさに政治的な判断でもって閉め切り面積が決定されてしまいました。それがひとり歩きしていきました。3900ヘクタールで閉め切ったにしても、諫早水害時の6割から7割ぐらいの雨が降ると、なんの役にもたたない。今の干拓地も2300ヘクタール浸水する。床上・床下浸水もあるというのが中間報告の結論だったのです。
そういう中間報告書の本当の報告書は、13年間ずっと隠されていました。昨年(19997年)の1月29日に私が原本のコピーを手にいれて読んで、「なんということだ!」と思いました。要するに、農水省も長崎県も最初から水害対策にはならないということを知っていながら、「諫早水害のようなのは二度とおこさない」ということで、12漁協1300人の漁民を札束でひっぱたいて同意させたのです。周辺の自治体の議会では、共産党も含めて全員が賛成しました。それはなぜかというと、「防災総合干拓事業」だったからです。「防災」とか「水害」ということについては抵抗できなかったのです。
ところで、1989(平成元)年の起工式の時は、いつのまにか「防災総合」という字は消えてしまっていて、「国営諫早干拓事業」になってしまいました。完全にペテンにかけられたのです。こうして、工事は着工になりました。
5.諫早湾の干潟は世界第一級
いよいよ工事にかかって、これをなんとか見直しさせなければならないというので、私が考えついたのが、いわゆるベントスの調査です。つまり底生生物の調査です。
それまでは、渡り鳥を保護しようというのが日本の干潟を守る運動の中心でした。私は、それだけでは開発を見直しさせるとか中止させるのはむずかしいのではないかと思いました。それよりも、干潟と人間の関係、干潟というのがいったいどういう役割を果たしているのかということから相手側を理論的においこまなければダメだろうと考えまして、それで諫早湾の泥のなかにいる生き物(底生生物)の調査をはじめました。
調査をはじめて本当に驚きました。すごいですね。諫早湾の干潟は世界第一級です。私が採集したものだけで、1ミリ以上の生物で、主なものは貝類、エビ・カニ類、そしてゴカイの仲間です。300種類以上あります。そして、貝も新種が出て、イソギンチャクも新種がでました。
なによりも驚いたのはゴカイです。ゴカイの仲間が100種類以上いるのです。いま、鹿児島大学の佐藤先生たちと研究をやっているのですが、その中で、どうも20%ぐらいは新種です。あるいは日本初記録という可能性がでてきました。本当にびっくりしました。日本国中の干潟で一つの干潟からゴカイの仲間が50種類もでるというのはあまりないと思っています。それが100種類以上出ているのです。ですから、私は、ちょうどオウム真理教が問題になっていたので、オウム真理教に対抗して「ゴカイ真理教」というのをつくってその教祖になりました。「ゴカイは地球を救う、ゴカイは地球を救う」と言えば、自然環境を守れるのではないか、ということで、スコップ片手に沖縄を含めて九州各県の干潟を掘って掘って掘りまくりました。
そのたびに、諫早の干潟がいかに特異な干潟であるかということがわかりました。それで、諫早湾の干潟と比較するために、佐賀、福岡、熊本の有明海の干潟がどうなっているのかを調査しました。私の頭の中には1960年代のすばらしい干潟しかないので、当然そのような干潟であるだろうと思って、大学生と3人で3泊4日で調査に行きました。そうしたら、本当に驚きました。佐賀、福岡、熊本の干潟は壊滅です。見た目には諫早湾の干潟と同じようにきれいな干潟です。カニたちもいるし、ムツゴロウもときたま見えます。
ところが、スコップで掘ったとたん、もう硫化ガスの臭いがぷ〜んとしました。還元層になって真っ黒です。生きている干潟は1センチか2センチです。そんなところにゴカイなど住めるわけがありません。
渡り鳥は50年代、60年代は有明海全体に分布していました。それが、しだいに、野鳥の会のみなさんの調査結果を聞いても、だんだん有明海の奥部の方にやってくる渡り鳥の数が減ってきました。そのかわりに、諫早湾にずっと集中してきたのです。60年代には、諫早湾にはあれだけの渡り鳥は来ていなかったと思います。それが、今では有明海では諫早湾に一極集中して渡り鳥がきているという、そういう状況になっているのです。
実際に調べてみてびっくりしたのは、このように干潟が壊滅的な状況になっているということです。有明海は、ムツゴロウなどで有名なように、特異な生物がいます。16種類だと思います。もう20種類以上になっていると思いますが、有明海でしか見られない生き物がたくさんいるところです。ですから、当然のこととして、たくさんの調査や研究が行われているだろうと思っていました。それで、鹿児島大学の理学部のコンピュータを使って有明海に関する研究報告をとりだしてみようと思いました。出てきません。だれも調査研究をやっていないのです。これにはびっくりしました。
もちろん、水産試験場がありますから、重要な水産生物の研究や調査はやられています。しかし、基礎的な、たとえば、この干潟にどういう生き物がどれくらいすんでいるかという、そういういちばん基礎的な調査はまったくされていません。はっきりいって、1960年代までです。たとえば、有明海全体にカニがどれくらいいるかという調査を1963年に九州大学の三宅先生が報告書をだしましたが、それ以降、だれもやっていません。
1960年代と30年たった現在とでは、前述のように干潟の状況が根本から変わっているわけですから、当然、当時生きていたカニで絶滅したものもたくさんいるはずです。それで私たちが調査した結果、諫早の干潟は本当に国際級だということがわかりました。そういうことで論文をだしたりして、見直しの根拠にしました。
6.干潟がもつ重要な価値
諫早湾の干潟が大切だという根拠はいくつかありますが、一つは、いま述べたような生物の多様性に非常に富んでいるということです。本当に、スコップで掘りさえすれば、いろんな生き物がおります。私は本当は魚類学が専門なのですが、いつのまにかゴカイにとりつかれました。双眼顕微鏡でゴカイの顔を見ると、すばらしいですね。双眼顕微鏡は安いですから、子供にパソコンなんか買ってやらんで双眼顕微鏡を買ってやったらいいですよ。あれで干潟にいる生き物を見せたら別世界が広がります。そのほうがよほど教育的です。要するに、干潟は生物多様性に非常に富んでいるということです。
それから、干潟は生物生産性が非常に高いということです。干潟でとれる貝類は日本一です。それから水質浄化能力が非常に高いということです。この水質浄化能力については、東京にある中央水産研究所と愛知県の水産試験場が、愛知県三河湾の一色干潟(1000ヘクタール)でずっと長期的に調査していて、そのデータがどんどん発表されています。調査の結果、1000ヘクタールの干潟の浄化能力は金額にして878億2000万円に相当するという結果が出ています。
それは、干潟がもっている浄化能力について、下水処理施設をつくってポンプなども設置し、それを維持管理したりする金と比較してみたのです。下水処理施設の年間の維持費は5億7000万円かかります。そうすると、1000ヘクタールの干潟は878億2000万円に相当するということです。干潟の浄化能力は1000ヘクタールで10万人分の下水処理施設を造ったのに等しいと計算しています。諫早湾の場合は3000ヘクタールですから、ざっと3000億円の浄化能力をもっているわけです。
この生物生産性と水質浄化能力の2つが非常に大きなポイントになります。この2つとも、実は昨年の4月14日に閉め切られてから明らかになりました。閉め切られてから調整池の水位を1メートル下げたものですから、今は800〜1000ヘクタールくらいの干潟が干陸地になっています。
新聞などによく載っているように、膨大な貝がでてきています。あれはハイガイといいます。ハイガイは、昔は東京湾にもいっぱいいました。貝塚などをみるとでてきますが、いまはほとんど全滅です。ハイガイは1メートルにどれくらいでるかというと、40個や50個というものではありません。あれは船の上でいくらやっても、5回やっても1個ぐらいしかとれません。閉め切られて、貝が息苦しくなって干潟に出てきました。そしてパッと口をあけて死んでしまうのです。あれで諫早湾の生産力の大きさがわかりました。
それから、浄化能力についてみると、閉め切られてから1週間目からどんどん水質が悪化していきました。2、3日前も新聞に載ったのですが、水質の悪化はもうメチャクチャですね。それを今までは全部、干潟の生き物たちがきれいにしてくれたのです。地元の諫早市は10万足らずの人口ですが、今年の予算(新年度予算)では、水質対策で38億5000万円も計上しました。もちろん高度処理施設もつくりますが。水門を閉め切ったために、不要な金38億もの金を使わざるを得なくなったのです。これは、これからもずっと続きます。1回かぎりではないのです。
諫早湾の干拓事業の予算は、いま、2370億円にふくれあがっています。その2370億円もの金をつかって国は壮大な実験をしてくれて、干潟はいかに生産能力があるかということと、いかに浄化能力をもっているかということをやってくれたのです。普通は大学でも、2370億円も使ってそのような実験はできませんが、国だからやってくれたのです。だから、閉め切られて貝が大量に死んでいるのを見て、漁民は何と言ったかというと、「しまった。数十億円損した」と言いました。漁民もあれだけいるとは思わなかったそうです。
そういうことで、干潟がもっている能力というのは、たんに渡り鳥がくるというようなことではなくて、なぜ来るかというと、それだけ膨大な量の生き物がいるからです。諫早湾の干潟をスコップでちょっと掘ると、大型のゴカイが40、50個体すぐにでてきます。ものすごいものです。だから、数千羽、数万羽のシギたちが毎日腹いっぱいに食べても、ゴカイたちは絶対減らないのです。しかも、鳥たちが食べていたゴカイは、実は新種のゴカイだったのです。新種のゴカイを腹一杯食べることができたのですから、諫早湾のシギたちは幸せだったでしょう。そういうことで、諫早湾の干潟−−これは諫早だけでなくて三番瀬もそうだと思うのですが−−干潟のもっている価値というのはたんなる鳥だけでなく、人間の生活そのものだということです。そして、干潟は重要水産生物の産卵所、それから魚の生育所です。ゆりかごであり幼稚園となっているのです。そのこともはっきりしてきました。
今年になって影響がたくさん広がりました。堤防の外側ではアサリが全滅です。また、今年はノリは有明海全体は非常にいいできだったのですが、閉め切り堤防のすぐそばに佐賀県の大浦という漁協のノリは全滅でした。島原半島の漁民のみなさんと先日、一晩かけて飲んだのですが、青年部長も理事も「もう壊滅や!」「もうダメやな」「山下さん、あんたの言うとおりになったばい」と言いました。潮流が変わって魚がとれなくなったそうです。もう影響はどんどんでてきています。高級貝類のタイラギも、もう5年間、1個体もとれません。それにもかかわらず、農水省は決して干拓の影響だとはいいません。
そういうことで、諫早の干潟、三番瀬の干潟というものがどれだけ人間の生活に役立っているかということを是非考えてほしいと思います。
ところで、諫早湾周辺の人々は、実は、夕食のおかずを買ったことがありませんでした。全然金を使ったことがなかったのです。ちょっと干潟にいけば、貝もとれる、魚もとれる、タコもとれる。だから、夕食のおかずは買う必要がない。そういう生活をしてきたのですが、閉め切られた後は、そうした生き物がほとんど死んでしまったものですから、自分のお金で晩飯を買わなければならなくなりました。経済的にたいへんです。
7.官僚には科学も気象学も通用しない
農水省あるいは長崎県が言っている目的は水害対策です。あるいは、新しい干拓地の農業です。この中で、水害対策については、閉め切って1年たちますが、全く水害対策にならないということがはっきりしました。すでに6回大雨が降りましたが、冠水し、床上・床下浸水でやられています。にもかかわらず、農水省は「閉め切り前よりも影響が少なかった」と言っているのです。
農水省の官僚というのはおもしろいですね。僕ははじめて閉め切った後、農水省や建設省、あるいは環境庁のエライ人たちとお会いする機会がたくさんあったのですが、とくに農水省構造改善局の官僚のみなさんは非常におもしろいです。
おもしろい話はたくさんありますが、ひとつは、農水省が言っている、例えば5月に雨が降った、7月に雨が降った。そこで畑が冠水した。にもかかわらず、自然排水がうまくいった。とくに5月の場合は、自然排水がうまくいってポンプは1台も動かさなかった。−−というふうに言っていました。ところが、そうではなかったのです。ポンプはフル回転です。閉め切り前とひとつもかわりません。しかし、農水省は現地を見てみようとしません。でも、やっぱり「ちゃんとうまくいった」と言いましたから、農水省の官僚に「みなさん方の話をそのままうけとると、水というのは下から上に流れるということになるのですが、それでいいんですか?」と言ったら、返事をしません。否定しないのです。構造改善局に言わせると、水は下から上に流れるのだそうです。それから、「なぜ、閉め切ったままにしておくのですか。今は気象予測が発達しているので、予測ができるのではないですか。だから、1週間前くらいから、台風が来るとか大雨が降るとかいうのはわかるでしょう。それまでの間は水門を開けておいて、台風が来そうだとか大雨が降りそうだとかなったら、閉め切ってマイナス1メートルにして待っていたらよいではないですか」と言いました。そうしたら何と言ったかというと、「気象庁は信用なりません」と言いました。そして、「まったく雲がないときに、空がにわかにかき曇って諌早水害以上の大雨が降ることは否定できません」と言ったのです。「アメダスがあるのではないですか」と言ったら、「あんなのは信用できません」と言いました。不思議ですね。私はそれを聞いたときに、科学も気象学も通用しない農水省の官僚は、どう考えてもホモサピエンスではないのではないか。エイリアンではないか。だから、私たちは地球防衛軍をつくってエイリアンを追い出すまでがんばらなければならないと思っています。
今度、新しく出版する『ムツゴロウ騒動記』にはエイリアン論を書いています。農水省だけではなくて環境庁もそうです。環境庁の水質保全局の人たちも、本心はどうか分かりませんが、農水省や建設省の官僚がいるものだから本当のことが言えません。「水質が悪化している。原因はなんですか」と問うたら、「分からない」と言うのです。「分からないことはないでしょう。閉め切ってマイナス1メートルにして、テレビに映っているように膨大な生き物が死んでいるでしょう。死んだら腐るでしょう。雨が降ったら、腐ったものが雨水が調整池に流れ込むでしょう。調整池はだんだん淡水化が進んでいます。そしたら、生き物が死んで腐るでしょう。それで水質が悪化しているのではないですか」と言ったら、「いやー、分からないんです」と言いました。「どうしてですか」と聞いたら、「アセスメントに書いていませんから」と答えました。これは環境庁官僚の答えです。そんなことで、公共事業というのは、いったい何だろうか、と思っています。
8.閉め切り後、電話が鳴りっぱなし
話をもとにもどしますと、昨年(1997年)の4月14日は、実は私と家内は抗議行動にいって閉め切られた扉のなかに入り込んで抗議行動をしていたので、ギロチンを見ていません。家に帰ったら、ひっきりなしに電話が鳴っていました。急いで電話をとってみたら、埼玉からでした。若い奥さんが泣き声で、「小学校にいっている女の子があの映像を見て、ひきつけをおこしています。それで、いま膝に抱きかかえています。なんとかムツゴロウを救うことはできませんか」と言いいました。これが第一報でした。
それから4カ月ぐらい、朝の6時から夜の12時まで、2分から3分おきに電話がかかりっぱなしです。電話がとまりません。しかたがないので、私の裏庭にプレハブをたてて、そこに「諫早干潟緊急救済本部」をおき、電話も増設しました。それでも電話が鳴りっぱなしです。
最初は“ムツゴロウがかわいそうだ”ということでした。それで、ムツゴロウ救出作戦をやろうと若い人が言ったので、私はそれはやめたほうがよいと言いました。ムツゴロウ救出策などということでやったら、必ずドンガメさん−−ドンガメさんというのは、建設大臣をしていた亀井静香さんのことです−−が、「ムツゴロウが大切か、人間が大切か。ムツゴロウが大切というのなら、タイやヒラメはどうすんや」と言いましたが、必ずそうなるよと言いました。だから、ムツゴロウ救出作戦などはやめたほうがいいと言いました。しかし、「やらせてくれ」と言うので、2回ほどムツゴロウ救出作戦と銘打ってやりました。全国からたくさん来ていただきました。子供たちが泥まみれになって生き物をとって、なんとか救ってやりたいと言って、ほんとうに涙がでるくらいによかったのですが、それはそれで効果がありました。
しかし、1カ月もたたないうちに、各地からよばれて講演に行くと、話の中身や討論の中身がちがってきました。諫早湾の事業と比較して自分の足元の公共事業をどのように見直すか、どのように中止させるか、そのこととつなげて、いわゆる日本の公共事業のあり方について討論をしよう、話をしてくれ、というのが多くなりました。これは、本当に本筋です。
9.ムツゴロウと共存を
これは、皆さん方からおこられるかもしれませんが、私たちはムツゴロウを保護しようなどとは少しも思っていません。実は、ムツゴロウの蒲焼きは非常においしいものです。ムツゴロウの蒲焼きで焼酎を飲みたいのです。子供にも孫にもムツゴロウの蒲焼きを食べさせたい。そのためにやっているのです。「ムツゴロウ裁判」とよばれる自然の権利の裁判がありますが、これもそうです。この裁判では、「ムツゴロウを食べるためにやっているのです」と言っています。
その理由は、少し海の生態学をかじると分かると思います。保護したってダメです。海の生き物は全部死ぬんでしょう。死んだら腐る。そのままにしていたら、干潟も海も死んでしまいます。だから、渡り鳥がエサをとって陸(おか)にあげてやる。そして、人間が沿岸漁業をやる。子供たちが潮干狩りにいって、とって食べてやる。それをやってはじめて、干潟の生態系が完結するわけです。ですから、ムツゴロウをまもろうとは思っていません。といっても、ムツゴロウが全滅するような形でたくさんとって食べてはいけませんよ。要するに、ムツゴロウとともに生きたいわけです。
おいしいなどと言って食べるくらいだったらいいのですよ。とって食べてやらなければ、ムツゴロウは種として存続できませんから。そういうことで、けっしてムツゴロウをまもるためなどという意味はありません。当然、私たちも地球上の生物のひとつですから、ほかの生き物を食べなければいきていけません。いずれにしても、生き物と共存というのは、そういうものだということです。こういうことで私たちはやっています。
10.ギロチン効果の衝撃
衝撃的な映像はその晩にテレビで見たのですが、そのときに、私は“この闘いは勝った!”と思いました。本当に衝撃的でした。勝ったと思った理由は2つあります。
ひとつは、二十数年間、諫早湾のことを訴えつつづけたのに、だれも聞いてくれませんでした。本も書いていますし、200回とか400回以上の論文も書いています。だれも目を向けてくれませんでした。せいぜい目を向けてくれたのは、三番瀬を守る運動をつづけている「千葉の干潟を守る会」とか「藤前の干潟を守る会」など、全国のNGOの人たちが目を向けてくれただけでした。一般の国民も政治家もだれも知らないという状況がずっと続いてきました。ところが、あの映像は衝撃的でしたから、これで全国民の目がここに集中すると思いました。案の定、そうでした。その日から、反響がおこったのですから。
もう一つ、私が勝ったと思ったのは、ボタンを押す場面を見たときです。あれは、ボタンは一つでよかったのです。農水大臣か長崎県知事がボタンを押して、293枚の鉄板を落とせばよかったのです。しかし、ダミーのボタンを10個つくり、11人で押しました。死刑執行と同じじゃないですか。死刑執行はあのとおりに行います。結局、だれも自信がなかったのです。だれも、水害対策事業になるとは思っていなかったのです。だから、11人にだれがボタンを押したか分からないような形でボタンを押させました。あの映像をみて、“これは勝った”と思いました。
閉め切りが決まったときにNHKテレビが取材にきました。「閉め切りがいよいよ決まりましたね」と言いましたが、私がニコニコして笑っていたので、「山下さん、いよいよ閉め切りがきまったのに、そんなに笑ってもらったら映像にならないんですよ。もっと深刻な顔してもらえませんか」と言うので、「おかしくて深刻な顔などできない」と言いました。「このままで撮ってくれ」と言いました。撮ってから最後に、「いよいよ明日は、閉め切られて27年間の山下さんの運動もこれで終わりですね。自己批判はどうなんですか?」と言いました。この時は頭にきましたね。「自己批判するのはマスコミおまえではないか!」と怒りました。私は、その時はじめて怒りました。私はマスコミとは絶対にケンカしないということをずっととおしてきたのですが、このときだけは頭にきました。
「自己批判せよ、とはなにごとだ!」と怒りましたが、そのあとで映像を見てから、勝ったと思いました。たしかに1年たっても水門は開いていません。しかし、ギロチン効果ということで、建設省はダムを中止しました。あの堅い農水省も農村空港をやめて、そして干拓問題でも熊本の羊角湾、佐賀の有明干拓を中止しました。いわゆるギロチン効果です。公共事業というのは聖域です。公共事業を見直すとか中止するというのは、いまだかつて戦後五十数年間やられたことがありません。絶対にやらないことがギロチンが落ちたことによって見直しをし、あの橋本首相すら関係官庁に対して公共事業の「時のアセス」をやれと言わざるをえくなりました。
そういう意味では、1年たっても水門は開いていませんが、諫早がもたらした衝撃とか運動は、日本全国の公共事業に大きな影響を与えていると思います。
11.公共事業は自民党政治の根幹
公共事業のしくみについていえば、もうご存知の方はたくさんいると思うのですが、それが国会で審議になったことは一度もありません。不思議な話ですが、私といっしょに自然保護運動をずっとやってきた人で、今は自民党にいっていますが、新進党から自民党に変わった田浦直さんという内科の医者をやっている人で参議院議員がいますが、その人と仲がいいものですから、昨年ばったり会ったときに、「田浦さん、長崎県選出の国会議員は全員が賛成ばっかりよって、ひとりぐらい見直しになってくれんと困るけん、あんたなってくれんね」と言ったら、「新進党だったらよかったばってん、自民党にいったので、ちょっとできんさ」と言われました。その時に、田浦さんが、「実は山下さん。一昨年、初村謙一郎さん(新進党の若手の国会議員)と2人で農水省の構造改善局にどなりこんでいった」と言いました。「どうしてですか」と聞いたら、「諫早湾事業は水害・防災・高潮対策だから、平成元年からの事業は当然建設省がやっているものばかりと思っていたら、農水省がやっていると知ったので、頭にきてどなりこんでいった」と言うのです。十数年間、国会議員をしていて、しかも地元の長崎県選出で、その国会議員がいまやられている公共事業をどこがやっているかをわかっていなかったのです。これは議員の不勉強とはいえません。国会で1回も論議されなかったのですから。実際に論議がはじまったのは昨年の1月からです。1月31日からはじめて国会で論議になりました。
公共事業の決定の仕方ですが、まず、公共事業というのは数十兆円ものお金をどうつくるかというと、まず各省庁がこういう公共事業をやりたいというので計画書や予算をつくる。それをどこにもっていくかというと、事務次官会議にかけるそうです。これは全省庁の事務次官が全員出席します。そして、そこで決定をしなければならないそうです。実はここに落とし穴があります。多数決でやればいいのですが、満場一致ということが決められているものですから、たとえば諫早干拓について農水省の事務次官が、これは諫早の水害対策のためにやるといえば、建設省の事務次官が「何をいうか。水害と高潮対策はおれたちのところだ」といちゃもんをつける。すると、こんどは建設省が長良川の事業の予算を出して「長良川の水は農業用水に使う」と言ったら、農水省の事務次官が「何をぬかすか。灌漑(かんがい)用水だったら、それは農水省の役割だ」ということになって話し合いがつかず、公共事業はできません。ですから、満場一致なのです。だから、文句があってもそのままとおってしまうのです。
そのつぎにかけるのは閣議です。いつも総理大臣を中心にして閣僚がいっぱい集まっている会議がテレビに映りますが、管直人さんの話を聞いてびっくりしました。管さんが厚生大臣をしているときに120回ぐらい閣議をやったそうですが、国の重大な政策決定とか公共事業などを決めるのですから、私たちド素人の考えでは、せめて30分ぐらい審議しているのだと思ったら、管さんにいわせると平均9分だそうです。9分間でなにが審議できますか。要するに、事務次官会議で決定しているから閣議はただ印鑑を押すだけです。
こういうふうに、公共事業はずっとやられてきているわけです。どうしてこんなことになっているかというと、戦後ずっと自民党政権を支えているのが公共事業だからです。公共事業をしなければ自民党は選挙資金が手に入らないのです。それを立案するのが官僚です。ですから、官僚と自民党とゼネコンが完全に一体化している。これが公共事業です。
ですから、もし諫早の水門を開けると、いっせいに日本全国の公共事業がドミノ方式のようにバタバタと見直しに入ります。そんなことをやったら自民党政権は根底からくずれてしまいます。そして、官僚政治自体が根底からくずれるんです。だから、彼らは閣僚懇談会というものも開いていますが、そこで環境庁長官まで水門を開けないということに同意してしまいました。環境庁長官ぐらいは、「それはちょっと問題がある」とひとことぐらい言えばいいのに賛成してしまいました。なぜかといえば、そこがあるからです。公共事業は自民党政治の根本で、諫早の水門を開けたら自民党政治はひっくり返るのです。だから、1年たっても開けないのです。
しかし、一方では、ギロチン効果ということで、ここまで日本の世論が盛り上がり、国民的に盛り上がっているから、やはり少しはちゃんとしなければいけないというので、ダムを中止したり、干拓をやめたりせざるをえなくなった−−そういうことです。
12.諫早の運動は市民革命
そういう中で私たちがやらなければならないのは、公共事業というのはいったいなんなのか。公共事業は本当に“公共”なのかということです。
諫早湾の干拓の問題でも、よく政府などは「地元の要請」と言います。しかし、地元の要請というのは、誰の要請かというと、県知事や市長、それから議会(議員)の決議、つまり議員さんの決議です。これが地元要請です。しかし、先日、朝日新聞が世論調査をしたら、このままやるべきというのは21%でしかありません。そして、私たちも離島を除く7市で模擬住民投票を3時間でやりました。1つの市でおおよそ100人に1人が参加してくれました。3時間で7000名の参加です。その結果は、92%の人が見直しです。世論はそんなになっています。住民はそうなっているのです。賛成派の農民の人たちも「おかしい」と言っています。「水門を閉め切っても、冠水はひとつも防げないではないか」「むずかしいではないか」と言っています。ですから、地元では、大半の人がこのまま進めるべきではないということを言っています。にもかかわらず、「地元の要請が強いから」となっているのです。おかしいですね。それはやっぱり議会の決議があるからです。だから議会の意思と本当の住民の意思は全くちがうということです。
ですから、変な話ですが、私は、諫早湾の問題というのは、実は日本はじまって以来の市民革命の走りではないかと思っています。日本人は太平洋戦争が終わるまでは陛下の臣民でした。それがある日突然、「あなたたちの国は民主主義の国や」とか「あなたたちは市民や」と言われました。その民主主義も市民も、本気になって考えずにずるずるときてしまった。本当の市民というのはどういうものかというと、たとえ国の計画であろうと自治体の計画であろうと、おかしいと思ったら「おかしい」と声をあげる。それが市民でしょう。それがあげられない。“長いものには巻かれろ”とか“国や県のやる政策については文句を言ってはいけない”とか、そういうことを考えている間は絶対に市民とは思えません。たとえばフランスはフランス革命、イギリスはイギリス名誉革命、アメリカは独立戦争、──そういうことで市民というのは血と汗を流してかちとりました。ところが、日本は残念ながら血と汗を流しませんでした。それで「市民」と言っているのですが、実は市民でも何でもありません。
戦後五十数年間たってもまだそういう状況にあります。だから、諫早干潟の問題は、もちろん干潟を守ろうという大きな自然保護運動でもありますが、もうひとつは政治的にいえば、日本ではじめておこった市民革命です。諫早から本当に日本の国を市民革命にしたい。──そういうふうに私自身は思っています。市民革命と言ったら、共産党のみなさんから「山下さん、そんな過激な言葉を使うわんでください」と言われました。「市民革命と言うのはいいんではないですか。社会主義革命や共産主義革命と言っているのではないんですから」と言ったら、「何とかいい言葉ないですか」と言われました。いずれにしても、私はそう思っています。本当の市民層がないから、こんな変なことが続けられていると思っています。
13.諫早の干潟は特異
本当に、日本の干潟は壊滅的です。諫早湾の場合は特異な環境で、干潟が成長します。1年に7センチくらい、長さにして10メートル、どんどん成長します。だから、30年か40年に1回は堤防を先にのばして、そして、新しい土地をつくって水害対策などをしなければなりません。それを地先(ちさき)干拓といいます。
だから、諫早湾や有明海の場合にかぎっていえば、干拓はしなければなりません。その干拓した土地を何に使うかは別問題です。別に農地にしなくてもよいのです。閉め切った土地をそのままほったらかしにしてもいいのです。いずれにしても、30年か40年に1回は干拓をしなければいけない。それをずっと続けてきたのです。昔の人はすごく知恵があって、江戸時代の人はどうしたかというと、潮がひいた水際に竹とか笹などをたてるのです。すると、数年たつと、そこに干潟が盛り上がってくるのです。ある程度盛り上がってきたら、部落総出で土を運んでそれを足で固める。そして、堤防をつくっていたのです。そうすると、水害対策ができる。新しい農地ができる。堤防の先には干潟ができる。だから、水害も農業も漁業も両立していました。「柴搦(しばがらみ)方式」というのですが、そういう方式をやっていました。自然の理にかなったすばらしい技術だったのです。
ところが、残念ながら、日本は明治維新以降、日本のすばらしい科学技術を自分自身で消滅させてしまった。最近、建設省の多自然型工法がはやっています。つまり、近自然型工法です。スイスやドイツでどんどん新しい工法が発見されて日本にもちこまれていますが、スイスやドイツで発見されている近自然工法はすでに日本が江戸時代のときに完成させていました。それを明治維新のときに全部捨ててしまった。日本人というのはそういうすばらしい科学技術をもっていたのです。
14.三番瀬は後世に残すべきすばらしい干潟
よくいわれるのですが、ヨーロッパは自然とたたかい、自然を征服する、という思想をもっていました。しかし、日本はちがいます。自然はこわいものだ、神様だ、というふうにして自然と共存していました。そういう日本人が本来もっていた倫理観を私たちは再度確立しなければいけません。
これは非常に大切なことだと思います。子供たちは小学校の6年間は授業をやらずに、海や山や干潟につれていって、そして、どろんこになって勉強させたらいいんです。貝をとらせて、そこで数学も自然科学も英語でもなんでも教えたらいい。そして、中学校に入ってはじめて系統的に教えるような、そういう教育制度に変えないと、日本の自然は絶対にまもれないと思います。
そして、いま必要なのはガキ大将だと思います。ガキ大将がいないから刃物で人を切るのです。私は小刀は全員にもたせるべきだと思います。小学3年になったら「肥後守(ひごのかみ)」(小刀)を全員にもたせる。そして切ったらいかに痛いかということを自分でわかるようにする。私たち小学生のときは、3年の時に「肥後守」をもたされて非常にうれしいものでした。落とさないようにヒモでバンドにむすびつけて、そして小刀の使い方はだれが教えてくれたかというと、ガキ大将でした。川に泳ぎにいくと、ガキ大将が「あそこにいったらいかんぞ。カッパがいて、ひきづられるから、あそこは絶対にいくな」と言ってくれました。深い淵で危ないからから「カッパ」と言っているわけです。
ガキ大将はすばらしい先生です。そういうガキ大将が戦後はひとりもいなくなった。だから、おかしくなるのです。ガキ大将を経験していないやつが東京大学などというすばらしい大学に入って、そして官僚になるのですから、自然をぶっ壊すのは当たり前です。
日本でいちばんエライ生物学者はどなたか知っていますか。ノーベル賞をもらった利根川進さんです。立花隆と対談しているおもしろい本で、『精神と物質』というのがありますので、ぜひ読んでください。利根川進というのはいかにバカであるかというのがわかります。自分で言っていますから。生態学とか分類学というのは、そういうのは学問ではない。あういうのをやると日本の生物学は世界に肩を並べることができない、というようなことを書いています。そこの部分に目がいった途端に、この人はバカだと思いました。あんな人物から生物学を教えれたら日本の自然はどんどん破壊されます。あの人は1回だって干潟をみたこともないでしょう。カニを手でとってさわったこともないと思います。そういう人物がノーベル賞をとって日本の生物学会で幅をきかせているわけですから、本当に私はおかしいと思っています。あういうことだけはやめてほしいと思います。むずかしい遺伝子とかDNAだとか、そんなのをみんなに教える必要はないでしょう。そんなのは専門家など一部の人だけでいいでしょう。
小学校も中学校も高等学校も、全部海や山につれていったらいいではないですか。スイスやドイツはそれをやっています。工学も建築学も、生物学と生態学は必須です。教科書をみせてもらったら、9割までが生き物の話しです。分類学と生態学です。遺伝子などはわずかしかありません。「どこで授業するのですか」と聞いたら、「海や山や川に行って授業をしています」と答えました。「なんでそんなことをするのですか」と聞いたら、これは有名なスイスのクリスチャン・ゲルディー先生ですが、「人間が川に手をつけるとき、そこにどんな植物があって、どんな生き物がいて、どんな生活をしているかがわからずに、どうして人間が手をつけることができますか」と言いました。目からウロコがおちました。
さらに、「開発計画の計画とは何ですか」と聞いたら、「開発計画というのは、いまある自然のどの部分をどのように残すかというのが開発計画です」と言いました。日本の場合は違いますよね。三番瀬の場合は、ここを埋め立てるのが開発計画だと思い込んでいる。これは大きなまちがいです。
三番瀬は残すべきなのです。絶対に手をつけたらいけないのです。東京湾に残っている干潟は、それを残すのが開発計画です。線をひっぱって埋め立てて、コンテナ埠頭をつくるなどという、そういうのは開発計画ではありません。調査をやって、アセスメントをやって、いろいろなことをやって三番瀬というのは後世に残すべきすばらしい干潟であるということを確認したら、これを残すのが開発計画でなければいけません。先進国はそれをやっているのです。日本だけではないのですが、このままいったら、30年もしないうちに日本の干潟はすべて消滅します。そうならないように、是非いっしょになってがんばっていきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
(文責・中山敏則)
山下弘文さん
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