“たったひとりで谷津干潟を守った”はウソだ!

〜NHK「たったひとりの反乱 ヘドロの干潟をよみがえらせろ」〜

中山敏則

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 NHKテレビが「たったひとりの反乱」をシリーズで放送しています。「立場の弱い人たちが困難に挑み、乗り越えていく姿を描いたドキュメンタリードラマ」がうたい文句です。
 (2009年)12月8日は「ヘドロの干潟をよみがえらせろ」でした。谷津干潟(千葉県習志野市)を“たったひとりで守った”森田三郎氏の「孤独な闘い」を描いたものです。
 谷津干潟は、いまはラムサール条約の登録湿地となっています。


◆「孤独なヒーロー」

 ドラマのあらすじはこうです。
    《大量のゴミを一人で拾い続け、再生不能と言われた干潟を甦(よみがえ)らせた男がいた。世論を動かし市民とともに行政の埋め立て計画を撤回させた。10年にわたる孤独な闘いを描く。》

    《東京湾最奥部に、渡り鳥の楽園・谷津干潟がある。国設鳥獣保護区、ラムサール条約湿地の約40ヘクタールの干潟だ。かつて大量のゴミがあふれ、市の方針、住民の要請により、埋め立てが決まっていた。その計画を覆したのは、新聞配達員・森田三郎だった。再生不能といわれた干潟で、ヘドロにまみれ一人でゴミを拾い続けた。10年にわたる奮闘は、世論を動かし埋め立て方針を撤回させた。なにが男の気持ちを駆り立てたのか?》(以上、NHKのホームページより)

    《困難に一人で挑んだ人物の物語を、ドキュメンタリードラマと本人へのインタビューで描く。千葉県習志野市の谷津干潟は1970年代、大量の生活ごみで汚され、埋め立てが決まっていた。だが幼い頃、干潟で遊んだ思い出を大切にする新聞配達員の森田三郎氏(袴田吉彦)は干潟の再生を訴え、一人でごみを拾い始めた。続けること10年。森田氏を変人扱いした行政や近隣住民が、徐々に態度を変えていく。》(『朝日新聞』2009年12月8日、「試写室」)


◆関係者はあきれている

 森田三郎氏が谷津干潟の保全に大きな役割を果たしたことは事実です。しかし、「たったひとりで」とか「孤独な闘い」というのは、事実とまったく違います。「千葉の干潟を守る会」(1971年結成)や「千葉県野鳥の会」(1974年結成。当時は日本野鳥の会千葉支部)などの自然保護団体や市民団体も谷津干潟保全に大きな貢献をしたからです。
 森田三郎氏の活躍がなかったら谷津干潟の保全はむずかしかったかもしれません。しかし、「千葉の干潟を守る会」などの市民運動がなければ保全されなかったということも事実です。

 そもそも、この干潟を「谷津干潟」と命名したのは「千葉の干潟を守る会」です。ドラマは、そういう自然保護団体や市民団体の奮闘はまったく無視です。そればかりか、自然保護団体などは干潟の保全に消極的であったかのような描きかたでした。
 谷津干潟保全運動にかかわった市民団体のメンバーは「滑稽(こっけい)なドラマだった」などと言い、あきれています。


◆事実を歪曲したドラマ

 ドラマが歪曲しているのは、こんな点です。
  • 谷津干潟の保全運動は森田氏がはじめたものではない。1971年の「千葉の干潟を守る会」の運動からはじまった。

  • 谷津干潟が保全されたのは、「千葉県や大企業の乱開発から自然環境を守れ」と立ちあがった自然保護団体、団地自治会、PTA、労働組合、市民団体など多くの人びとがねばり強く運動を続けた努力の結果によるものである。この運動には、習志野市民だけでなく、船橋市や千葉市の住民も参加した。この貴重な経験はいまに引き継がれている。

  • 1971年、谷津干潟のど真ん中に高速道路(東関東自動車道)を通すという計画がもちあがった。この道路計画に対し、習志野市(袖ヶ浦、谷津)、船橋市(若松)、千葉市(稲毛)の住民が立ちあがった。「袖ヶ浦、谷津、若松、稲毛東関道対策住民協議会」という長い名前の会をつくり、道路公団や県と交渉を続けた。その結果、東関道は谷津干潟の南側に移動することになった。こうした運動によって、谷津干潟は保全に向けて大きく前進した。森田三郎はこの運動にはかかわっていない。

  • 森田氏は「千葉の干潟を守る会」に入会してから谷津干潟保全にかかわるようになった。しばらくして、森田氏は同会を退会し、ひとりで谷津干潟のゴミ拾いをはじめた。

  • ドラマでは、谷津干潟のクリーン(ゴミ拾い)作戦は森田三郎氏がはじめたとなっているが、これは事実と違う。クリーン作戦をはじめたのは「千葉の干潟を守る会」である。

  • ドラマは、谷津干潟にゴミを捨てたのはすべて習志野市民とし、市民が“悪者”であったかのように扱っている。しかし、じっさいは、谷津干潟でいちばん多かったのは谷津遊園(1982年まで開園していた大型レジャー施設)のゴミであった。2番目に多かったのは東京湾からの漂流ゴミである。一般市民が捨てるゴミは比較的少ないものだった。

 ドラマ「たったひとりの反乱」が描いたのは、上記の4以降の出来事です。それも、森田氏を「孤独のヒーロー」に仕立てあげるため、随所で事実をねじ曲げています。


◆批判を浴びた「プロジェクトX」の焼き直し
  〜ウソや“やらせ”も少なくなかった〜

 私は、この番組は「プロジェクトX」の焼き直しではないかと思っています。
 NHKの看板番組だった「プロジェクトX 挑戦者たち」は、事実の歪曲や“やらせ”もあったりして批判を浴びました。そのこともあって打ち切りになりました。

 たとえばこんな批判です。
  • 〔2001年7月〕白神山地の自然保護運動を紹介した際、地元の自然保護団体などから「ウソが多い」と30カ所以上の訂正・謝罪要求がだされた。
  • 〔2002年1月〕あさま山荘事件の地元警察の苦労話にたいし、当時の現場指揮官が批判した。
  • 〔2002年2月〕「日本初の盲導犬」の物語だったが、じっさいは、盲導犬はすでに十数年前に導入されていた。
  • 〔2005年2月〕「地下鉄サリン 救急医療チーム 最後の決断」では、1人の医師だけが頑張ったようにとりあげられた。じっさいはそうではなく、放映後、病院関係者同士が気まずくなる事態が生じた。
  • 〔2005年5月〕熱血教師と生徒たちの感動の物語を描いた「ファイト! 町工場に捧げる日本一の歌」に対し、学校OBなどから「そこまで荒れていた事実はない」「関西コンクールにパトカーは来なかった」「事実と違う」などという抗議が相次いだ。

 そんな「プロジェクトX」を、元共同通信記者の魚住昭氏は「美談仕立ての報道(まがい?)番組」と呼んでいました。(魚住昭・斎藤貴男『いったい、この国はどうなってしまったのか!』NHK出版)

 番組取材に協力した磯貝陽悟氏(ジャーナリスト)もこう述べています。
     「主人公のクローズアップを強調するあまり、事件の背景や動機、そして相対的な事実まで省略してしまう。そうした手法がやらせの温床になるのです」(『日刊ゲンダイ』2005年5月25日号)
 週刊誌『AERA』(2005年6月6日号)はこう記しています。
    《プロジェクトXの「行きすぎ」や「事実誤認」は今に始まったことではないのだ。(中略)
     NHKのある中堅職員は現場の意見をこう代弁する。「プロジェクトXは、『やっても1年くらい』と言っていた番組。ヒーローなんてそんなにいない。だから時には中トロを大トロに見せることを迫られる」(中略)
     著書に『NHK─問われる公共放送』(岩波新書)がある元立命館大学教授の松田浩さんは、こう話す。
     「虚構や誇張など感動を盛り上げるための過剰演出は、本来のドキュメンタリーとは無縁のもので、信頼性の喪失という点でも公共放送と視聴者の関係に大きなマイナスをもたらす。NHKは事の重大性を正しく認識すべきだ」》

 要するに、視聴率を重視するために一部の人間を無理にヒーローに仕立てあげたり、誇張や歪曲、ヤラセがおこなわれたのです。多くの視聴者がドラマに求めるのは、話の筋がいかにおもしろいか、です。視聴率にこだわったら、どうしても事実は二の次になってしまいます。


◆ドラマでは誇張や歪曲が行われる

 脚本家のジェームス三木氏は、ドラマについてこう述べています。
    《いうまでもなくドラマは虚構であり、やらせであり、嘘である。なぜそんなものが、人々の心を捉えるのか。細大洩らさず、1から10まで正確に伝えるのは煩雑(はんざつ)だ。聴くほうも面倒で分かりにくい。そこでつまらない部分を割愛し、興味深い部分だけを、センセーショナルに伝える。話を面白くするために、あるいは何らかの意図により、誇張や歪曲が行われる。少しずつ嘘が付け加えられ、やがてA地点で起きてもいないことを、創作して伝える。》(ジェームス三木『人間の正体』中経出版)
 今回の「たったひとりの反乱」も、そういう意図がミエミエです。
 しかし、ただのドラマとドキュメンタリードラマは違うはずです。事実を歪曲するのなら、「ドキュメンタリードラマ」とすべきではないと思います。

 最後に、歴史学者・色川大吉氏の言葉を紹介させていただきます。
    《実名のドラマである以上は、史実や考証を無視したり、歴史の許容範囲(その時代の可能性の限界)を破るような絵空ごとを構想されては困る。その時代にはあり得ないものを歴史の名で語るのは、虚構ではなく、虚偽だからである。とくに数千万の視聴者をもつマスコミは、その責任上、歴史教育を妨げぬよう戒心すべし。》(色川大吉『燎原のこえ─民衆史の起点』筑摩書房)

(2009年12月)





【追記】
 谷津干潟は2本の水路で東京湾とつながっているため、台風時などに大量のゴミが流れ込みます。たとえばこうです。
    《都心近くに残された貴重な野鳥の楽園として知られる習志野市の谷津干潟に、台風9号の大雨で河川から東京湾に押し流されたアシなどが大量に漂着した。同市は13日、撤去作業を開始した。アシや流木に加え、ペットボトル、粗大ごみなどが干潟の北東側、約400メートルにわたって打ち上げられ、約40ヘクタールある干潟のうち約1ヘクタールを埋めている。
     同市自然保護課によると、長期間にわたって干潟が埋まった状態が続けば、野鳥のえさになるゴカイや貝類などの生息に影響する可能性も考えられることから市単独で撤去に乗り出した。干潟に降りた作業員が巨大な鉄製のくま手でアシなどをかき集め、プラスチックの箱に入れて運び、クレーンでつり上げて搬出した。同課は「谷津干潟は市の貴重な自然財産。野鳥観察を楽しみに訪れる人たちのためにも、できる限りのことはしたい」と話している。》(『東京新聞』千葉版、2007年9月14日)
 ドラマ「たったひとりの反乱」の手にかかると、これもすべて習志野市民が捨てたゴミとなるのでしょうね。そのほうがドラマっぽくなるからです。






★谷津干潟保全に関する参考文(1)


谷津干潟・今昔


千葉大学名誉教授 石川敏雄


 1971年の早春、1枚の葉書が届いた。「習志野市地先の埋立認可が出そうだ。東京湾最奥の残り少ない干潟を水鳥たちの生息地として残したいので相談の会合を開く」という内容で、これが私や大浜清氏の人生を大きく変えてしまうとは当時夢想もしていなかった。
 3月27日に集まった20人ほどで、早速「千葉の干潟を守る会」を結成し、代表に大浜清氏を選んだが、少し遅れて行った私には、どの人が大浜さんかも分からず、白髪頭の延原肇さん(故人、当時習志野高校生物教師)だけが強く印象に残った。
 まず何をしたらよいかも分らないまま、会員拡大のビラ撒きと署名運動に取り組んだ。当時は全国的に公害や自然破壊がひどく、これに対する住民、市民の反対運動が活発化していたが、我々の中にはその道の経験者は一人もおらず、何をどうするのが効果的なのかなど、自分たちで一つひとつ考えながら実行した。
 活動の輪を鳥の愛好者から周辺住民に拡大する宣伝として、干潟がいかに住民にとっても大切なものか、失われたら二度と手に入らない貴重な存在であるかを、チラシに書き、署名集めの際も話した。幸い袖ヶ浦団地自治会などの役員に共鳴者が多かったこともあって、署名は約1ケ月半で1万7000余も集まり、6月の千葉県議会と習志野市議会に請願として提出した。

◇干潟保全の意義
 当時、千葉県では広大な干潟が次つぎに埋め立てられていた。有明海、伊勢湾などと共に広大な干潟を持った東京湾は魚介類の宝庫であり、アサクサリの産地でもあった。しかし1960年代に京葉工業地帯の埋立てから始まって、浦安、行徳、船橋、稲毛と埋め立てられ、東京湾奥では当時習志野と幕張の海岸だけが残されていた。
 初めて県へ交渉に行った時の県の担当者の返事に私は驚いた。「こんな干潟はどこにでもありますよ。そんな貴重なものではありません」「もう内湾漁業の時代ではありません。遠洋漁業の時代だから、干潟はもう必要ないのです」「千葉県は昔から貧乏だったから、工業化して儲けるのだ」等々。
 干潟の少ない東北地方に育ち、宮沢賢治が寒さの夏にオロオロ歩いたという冷害もある程度知っている私には「何というぜいたくな」と思える言葉だった。東日本には東京湾ほど広大な干潟はどこにもないし、食料不足の戦時中には、恐らく周辺住民に計り知れない恩恵を与えてくれた干潟を安易に埋め立ててしまおうとする人間とは、何と恩知らずなものだと、暗たんたる気分になった。

(中略)

◇谷津干潟の誕生とその保全運動
 我々の習志野地先埋立反対運動は周辺の自治会や町内会等の賛同、協力を得て大いに盛り上った。習志野市長は「寄り目のハゲボーズ」が窓ごとににらむ袖ヶ浦団地に足を入れられない程だった。

(中略)

 翌1972年1月に埋立着工。これまで各地で浚渫埋立を手掛けてきた業者は手慣れたもので、ものの半年で広大な埋立地が形成された。そして国有地として登記されていた約50ヘクタールの長方形の干潟が県の工事から取り残されていた。この干潟は、習志野市と船橋市と境を接する側、1982年まで開園していた谷津遊園の地先にあった。

 浚渫埋立地が次第に乾燥して餌場を失ったシギ・チドリ類などの水鳥たちは当然この干潟に集まってきた。こうして、全国有数の渡り鳥渡来地となった。当初、大蔵省水面と言っていたこの干潟に我々は谷津干潟と命名し、その保全運動を開始した。

 環境庁は1977年頃から国設鳥獣保護区指定を考えたが、当時の習志野市長はこの干潟を埋め立てて市の公共用地に使用したいと計画し、市の公報などにも掲載していたので、我々の保存運動には頑強に抵抗した。

 我々も単に鳥のための保護区というのでは市民の賛成が得にくいと考え、谷津干潟の南部の埋立地を含めた100メートルを自然教育園として残すよう市民に訴え、市、県にも働きかけた。この運動は市民からかなり好意的に見られたが、一方で干潟は臭いから埋めてしまえという一部住民の要求も根強くて、谷津干潟の保全は決して容易なものではなかった。

 干潟が臭かったのは、下水の流入と周囲を埋め立てられた干潟が浚渫の際流出した微細な泥をかぶってしまい、多くの底生動物が死亡して腐ったためであり、埋立後の2、3年後まで続いた。しかし干潟は徐々に回復して悪臭は減少して行ったが、埋め立てたい市当局にはかなり後まで埋立て主張の口実にされた。

◇東関東自動車道路の縦断
 東関東自動車道路(いわゆる東関道)は習志野地先の埋立地、しかも谷津干潟のド真中を東西に縦断する計画になっていた。しかし排ガス公害を心配する市民の声を代弁する形で、市当局が道路を旧市街地からできるだけ離して通過させるよう要求したため、約500m南に移動し、結局、谷津干潟の西南部を分断する形に納まった。

 この道路着工に対しては周辺住民の抵抗が大きく「袖ヶ浦、谷津、若松、稲毛東関道対策住民協議会」という長い名前の会(余り長いので通称「長い名前の会」)を作って、船橋、習志野、千葉の3市の住民が道路公団や県と交渉しており、千葉の干潟を守る会もその一員として交渉に当たった。

 特に当時すでに谷津干潟が水鳥たち、特にシギ・チドリ類にとって渡りの途中の主要な餌場であり、またハマシギの集団渡来地でもあることが認識され出していたことから、この干潟の聖域性が問題になった。この干潟の重要性を論じた新聞寄稿に対し、時の石原慎太郎環境庁長官が同紙上で「道路は橋梁にするので干潟が分断されても影響は無い」と妄言したのには、あいた口がふさがらなかった。計画では、干潟を通る数百mの道路に幅5mの暗渠が3個所できるだけで、橋梁は全くない。作家はいかに創作がうまいとは言え、今だに忘れることができない新聞記事である。

 東関道は習志野市の要求通り道路の北側に100mの緩衝地帯を設けることで開通した。ほとんど注文をつけなかった船橋市と千葉市にはそのような大規模な緩衝地帯が設けられなかった。このことは、この種の工事に対し地元の自治体や市民の関心の強さがいかに影響するかを如実に示している。この100m緩衝地帯は谷津干潟にとっても重要な意味を持って来る。

◇森田三郎氏の活躍
 森田さんは過去2回の選挙に最高点で当選した習志野市議であるが、幼小時を、家の前の干潟が「ふかんど」と呼ばれていた谷津付近で育ち、思い出深い谷津干潟には大いに関心があって、当初、「千葉の干潟を守る会」で我々と一緒に活動していた。しかしこの会の陳情や調査などの活動はなまぬるいとして、自ら「谷津干潟愛護研究会」を作り、谷津干潟の清掃活動を始めた。我々も埋立地や岸に近い干潟のゴミ拾いを手伝ったりしたが、森田さんのは徹底していた。

(中略)

◇ついに保護区指定
 1988年2月1日づけで谷津干潟は国設鳥獣保護区に指定され、干潟の中心部は特別鳥獣保護区になった。周辺の埋立てで谷津干潟の形になって15年余、環境庁自然保護局長が国会答弁で保護を言明してから12年余が経過している。反対を言い続けていた吉野習志野市長が汚職がらみで引退し、つぎに立候補した3人が皆谷津干潟の保全を公約したので、その後は比較的順調に進行したと言える。

(中略)

◇おわりに
 現在の谷津干潟は、東西2本の水路で東京湾(京葉港)の水と連結しており、潮の干満によって水の交換も行なわれている。京葉港のすぐ外側に三番瀬の浅場があるため、谷津干潟に流入する海水は極めてきれいであり、このことも谷津干潟の保全に貢献している。現在計画されている京葉港2期工事および市川地先の市川2期埋立計画は三番瀬の大部分を埋め立てるため、三番瀬の消失は谷津干潟の水質悪化を惹起するものとして憂慮されている。現在谷津干潟に渡来するシギ・チドリ類は三番瀬(その一部が船橋海浜公園)との間を往来していることが調査結果として判明している。

 以上で谷津干潟の形成から現在までを略述したが、これは「千葉の干潟を守る会」の一員としての記述である。現在、谷津干潟に関わっている団体の数は多く、関わり方もそれぞれに違っている。
 森田さんの「谷津干潟愛護研究会」のことは若干触れたが、森田さんが関係している会は他にもあるし、ここで定期的に野鳥を観察している団体、グループも多数ある。保護に関する意見も一致するものばかりではないかも知れない。
 しかし、谷津干潟はシギ・チドリなど水鳥あっての干潟であり、その機能が充分発揮されるような環境を維持するように、衆知を集めて努力したいものと考えている。

※全国自然保護連合編『自然保護事典(2) 海』(緑風出版、1995年)に所収





★谷津干潟保全に関する参考文(2)


東京湾の干潟を守る運動26年


千葉の干潟を守る会 代表 大浜 清


(前略)

 埋立てあとには、四面護岸に囲まれた小さな水面が残った。国有地だからという理由でお役所は「大蔵省水面」と呼びはじめた。習志野市はそこに埋立計画を立てた。

 73年末、私たちはそこを取りもどす運動を始めた。埋立てに追われて東京湾中から集まって来た烏たちを守るために、干潟をうばわれた子どもたちのために、そして何より私たち共有の宝を守るために。

 私たちは祖先からの地「谷津海岸」の名を残したいと思った。私たちはその水面を「谷津干潟」と名づけた。この地を残すぞ、守るぞというちかいの命名である。

 私たちは「谷津干潟自然教育園」設置要求と国設鳥獣保護区特別地区指定要求を掲げ、そこをつき抜けて通ろうとする湾岸道路阻止闘争を展開した。袖ヶ浦・谷津・若松を中心とする団地住民が同盟軍であった。役所へおしかける、無数の立看板、集会、現地抗議!──。自然観察会さえ、工事を強行するお役所の「破壊活動」看視と抗議行動であった。「行政不服審査請求」もぶつけた。

 手をやいた国は、このままでは成田空港開港に重大な支障を来すと考え、谷津干潟を保全し国設鳥獣保護区特別地区にすること、湾岸道路100メートル緩衝緑地を作ることを約束した。

 埋立反対に3年、谷津干潟保全を約束させるのに4年かかった。しかし習志野市はなお埋立案にこだわって横車を押し、国設鳥獣保護区の実現にはさらに11年かかって89年となった。

 しかしそこから、情勢は一気に変った。91年私たちは東京湾をはじめ、日本の中で最も重要かつ緊急に保護を要する4つの干潟海域を至急「ラムサール集約登録湿地」に指定せよとの運動を始めた。東京湾の浅瀬・干潟全域、名古屋港藤前干潟、博多湾和白干潟、諫早湾の4海域である。2年後の93年、同条約釧路会議の直前に、国は急拠谷津干潟を(そこだけを)ラムサール湿地に指定した。谷津干潟とそこの観察センターは国際的に注目される存在となり、市と市民の意識を180度変えつつある。今や、私たちのスローガンは、「谷津干潟を次なる埋立ての免罪符にするな」である。

(中略)

 一方、隣の船橋と市川(行徳)の前面に広がる三番瀬は、73年に中途で埋立てを凍結された海面である。ここには1000ヘクタールを越える1メートル以浅の浅瀬と干潟がある。中曽根内閣(83年)以来、県は埋立復活を画策し、84年から私たちは勉強会を手はじめとする反対運動に着手した。バブルの余波にのって92年県はいよいよ本格的に埋立計画を発表、96年私たちは市民の知る権利、意思表示の権利を行使するため、「三番瀬を守る署名ネットワーク」を結成して署名運動に入った。97年5月現在署名は9万をこえている。
 そして、税金ドロボウともいうべき公共事業の実態と諸矛盾を追求する連続講座「三番瀬土曜学校」が新しいエネルギーを作り出し始めている。そこでも、推進主体となっているのは主婦たちである。そして私たちは今叫ぶ。「三番瀬を第二の諫早湾にするな」!!


※福尾武彦編著『現代を生きる学び』(民衆社、1997年)に所収





★谷津干潟保全に関する参考文(3)


谷津干潟はこうして残った


千葉の干潟を守る会 田久保 晴孝
 


 1970年代には、谷津干潟は、国有地(大蔵省所管)で、大蔵省水面とよばれていました。私たちは、この干潟を谷津干潟と名付け、保全運動をしました。

 公有水面埋立法により、千葉県知事の権限では国有地である谷津干潟を埋め立てることができませんでした。そして、周辺の京葉港1期埋め立てにともない、谷津干潟と周辺で全国の8分の1という多数のシギ・チドリが集まるようになりました。

 全国有数の水鳥の渡来地となった谷津干潟を縦断して通る東関東自動車道(湾岸道路)に対して、若松(船橋市)、袖ヶ浦(習志野市)、幕張、稲毛(千葉市)の団地を中心とした住民が広範囲に繋がり、反対運動を行いました。
 成田空港開港にともなう東関東自動車道(湾岸道路)を通すことは国の最重要課題となっていました。
 1971年に結成された「千葉の干潟を守る会」や1974年に結成された「千葉県野鳥の会(当時は日本野鳥の会千葉支部)」などの自然保護運動と湾岸道路反対運動と一体となった谷津干潟を自然教育園にしようとする運動が盛り上がり、その成果として、1977年環境庁は、谷津干潟(40ha)の国設鳥獣保護区化を明言しました。(その当時、習志野市長および習志野市議会の多数は、谷津干潟の自然教育園化〔保全〕には反対していた)

 1977年以降、森田三郎氏が「千葉の干潟を守る会」から離れて、独自にゴミ拾い活動を始めました。その活動がその後の保全に大きな役割を担いました。

 谷津干潟は、1988年に国設鳥獣保護区化、1993年にラムサール登録湿地に指定され、1994年に谷津干潟自然観察センターがオープンして現在に至ります。

 なお、谷津干潟自然観察センターが建っている公園を含め習志野市から千葉市にかけての東関道(湾岸道路)北側の緩衝緑地帯は、東関道(湾岸道路)建設反対運働の成果です。
 谷津干潟が残ったのは、広範な市民運動の成果であり、偶然や奇跡的に残ったのではありません。


※千葉の干潟を守る会会報『干潟を守る』第97号(2006年12月)に所収





★谷津干潟保全に関する参考文(4)


谷津干潟と「守る会」の住民運動


東京農工大学大学院農学研究科国際環境農学教授 若林敬子
 


 東京湾奥、習志野市の南西にある41ha(内干潟部分は36ha)の谷津干潟は、まさに埋立て開発の荒波の中で住民運動による必死の環境保全の攻防がくりかえされ、ようやくぎりぎりのタイミングでラムサール条約登録にこぎつけた事例である。

 谷津干潟は埋立てにより周りを陸地に囲まれ、2本の水路が東京湾につながっていて、1日2回の干潮の度に潮が水路を川のように流れていき、又流れ込んでくるれっきとした海=干潟である。つまり東西両端にある河川により東京湾と連絡し、前浜干潟が埋立てられずに残ったもので、有機質に富む泥質である。

 谷津干潟がこういう形になったのは1972年のことである。かつて沖合3km位まであった広大な干潟はその数年前に漁業権が放棄されていた。閉鎖的な水域、後背地の急激な都市化と人口増による大量の下水の流入、ゴミ捨て時代のゴミ堆積、14車線もの道路が干潟を東西に貫通する計画、そんな最悪の時に干潟の保存運動は出発した。

 多くの鳥類、年100種、内60種が水辺の鳥で、シギやチドリ類が多い。シベリアから東南アジア、オーストラリアへ行き来する渡り鳥の集団渡来地・中継地として重要な場になっている。有機質に富み、泥質地であるから多くの底生動物・魚類も生息し、渡り鳥を主とした水鳥の採餌場、休息場として適した環境になっている。

 その歴史的経緯をみると、明治期に遠浅の海岸を利用して製塩やボラ、ウナギの養殖を行うために製塩場の整備や養殖場が作られたが、度重なる暴風雨で相次いで廃業となる。1925年、京成電鉄に海浜レジャー用地として谷津干潟を含む74.8haが買収された。その一部分は谷津遊園地として1982年の閉鎖まで近郊の人々に親しまれた。
 1930年前後から、利根川増補計画に基づく放水路整備を図るため、内務省及び運輸通信省が京成電鉄から谷津干潟を含めた49.6haを買収。その後この土地は1955年に用途廃止により大蔵省に属した。1966年には京葉港第2期事業計画が千葉県より習志野市に提示された。

 大浜清を代表とする「千葉の干潟を守る会」が結成されたのはこうした開発の波がおしよせる1971年であり、「東京湾を死の海にするな」をスローガンとして、習志野と千葉市幕張の埋立てに反対表明し、運動を展開した。「私達の東京湾」を訴え「東京湾勉強会」を出発点とし、1984年には「東京湾会議」も結成される。
 京葉港1期工事が進んだ後、50haの四角い国有地が水面として取り残され、ここに建設省による湾岸道路と習志野市による住宅地造成の開発計画があり、この水面を「谷津干潟」と名付けた。1977年に国は国設鳥獣保護区特別地域の設定を約束するに至るが、これが今日の谷津干潟のもとである。わが国最初の自然干潟サンクチュアリー(野鳥の聖域)となり、国設鳥獣保護区に指定されたのは1988年になってのこと。このように市民と行政との間で干潟を巡っての攻防が続いた。

 この「千葉の干潟を守る会」は、全国干潟を守るシンポジウムと連携、1976年5月29、30日の第2回全国干潟シンポジウムを千葉市で開催した。必然入浜権運動と結合し、公有水面埋立法改正案の対策として「海浜保全基本法」構想を提起した。これは埋立てを海浜保全の例外条項としてのみ認めよとする主張で、辻淳夫(現・藤前干潟を守る会々長)によって成文化され、入浜権運動にもとりこまれ引き継がれた。
 この考え方は、船橋漁民の大野一敏が提唱した1984年のサンフランシスコ湾計画をモデルとする東京湾保全構想の中で大きく発展せられ、86年の東京弁護士会も「東京湾保全基本法(案)」の提言を行うに至った。
 1991年、全国干潟シンポジウムが母体となり、「日本湿地ネットワーク」が結成された。市川2期と京葉港2期の埋立て基本計画ができる直前のことである。このネットワークはわずかに残った東京湾全域の干潟と、名古屋の藤前、博多湾の和白、今津、さらに諫早の4つの干潟をラムサール条約に登録させようと運動した。その結果、1993年の第5回ラムサール条約締約国会議(釧路会議)において、谷津干潟だけが登録湿地となった。

 谷津干潟はこうして周囲を埋立てられてしまってはいるが、多種多様な生物が生息し、人口集中の稠密(ちゅうみつ)大都会の中にあって、人々の心に他にかえがたい憩いを与え続けている。どうやら埋立て開発の怒涛のような荒波が次々とおしかける中で、ねばり強い住民運動の力が直前の所でその消滅を防護“成功”した事例といえようか。


※若林敬子著『東京湾の環境問題史』(有斐閣)より





★谷津干潟保全に関する参考文(5)


市民運動が貴重な自然を守った


中津攸子(作家、市川市在住)


 京成谷津駅から半時ほど歩くと広さ40.1ヘクタールの谷津干潟に着く。干潟の周囲は埋め立てられ高瀬川と谷津川で東京湾と結ばれ、満潮時には水深1メートルに達し、干潮時にはゴカイ、シジミ、カニなどが生息する泥干潟となり、餌があるため多くの鳥が常に飛来している。

 この谷津干潟は京成の所有地だったが第二次世界大戦の勃発を控えた昭和18年(1940)に国のものとなった。

 昭和46年(1971)に東京湾沿岸の多くの湿地帯が埋め立てられた時、市民が干潟を守る会を結成し熱心に存続を訴えたことから、周囲は埋め立てられたにもかかわらず、谷津干潟だけは残された。そして昭和63年(1988)には大蔵省の管轄から環境庁に移され、平成5年(1993)6月10日、国際的にも重要な湿地としてラムサール条約登録湿地となり、渡り鳥や留鳥などたくさんの生物のオアシスとして永久に保存されることになった。

 市民運動が貴重な自然を守ったのだ。ちなみに、現在179カ国がラムサール条約に参加し、日本では33カ所のラムサール条約登録湿地がある。

 平成6年、習志野市は谷津干潟自然観察センターを開設し、自然への関心を高め、人間と自然の共生をはかる生きた環境学習の場を作り上げた。観察センターには30ものボランティア団体が所属し、手作りの机やいす、写真、分かりやすい解説文や図、鳥のぬいぐるみや鳥の衣装などさまざまなサービスを工夫し提供している。

(後略)

※『千葉日報』2008年1月19日、「房総展望─あるある見所、聞き所(12)」より抜粋







千葉県が埋め立て工事着工と立入禁止の看板を設置(1971年12月)



海をにらむ子どものポスター「寄り目のハゲ坊主」。
干潟がみるみるうちにつぶされていくくやしさから生まれた。



海に面していた習志野市袖ヶ浦団地では、3000戸の窓に
「寄り目のハゲ坊主」が吊るされた(1972年撮影)



3000戸が「寄り目のハゲ坊主」を窓に吊した(1972年撮影)



習志野市袖ヶ浦団地で開かれた埋め立て反対の市民集会(1972年6月)



埋め立ての危機にさらされていた当時の谷津干潟(1975年5月撮影)



同上



「谷津干潟を保存し、自然教育園に」を訴える写真展(1975年)



習志野市内で「谷津干潟を保存し、自然教育園に」の署名活動(1975年)



千葉駅前でも「谷津干潟を保存し、自然教育園に」を訴え(1975年)



同上



同上



谷津干潟の自然観察会(1975年)



工事中の湾岸道路。当初は谷津干潟のど真ん中を縦断する計画であったが、
反対運動などにより、谷津干潟の南側(写真では左側)を通過する形になった



ラムサール登録後の航空写真



現在の谷津干潟



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