民衆運動における義民伝の意義

─百姓一揆や自由民権運動を鼓舞した佐倉宗吾伝説─

中山敏則


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 義民とは、わが身の利害をかえりみず正義や人道のために権力とたたかって犠牲になった人物をいう。その代表的人物は佐倉宗吾(佐倉惣五郎、佐倉宗吾郎、本名:木内惣五郎)である。成田市の宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂)は彼を祀(まつ)っている。ここには全国から年間100万人を超える参拝客が訪れる。宗吾伝説は百姓一揆や自由民権運動を鼓舞(こぶ)した。

◇       ◇

 三番瀬保全運動においても、佐倉宗吾の漁師版「船橋三番瀬物語 飯盛(めしも)り大仏」が貢献した。この義民伝は津賀俊六さん(故人)が著した創作民話である。史実そのものではない。しかし史実と違うからといって、その偉大さが損なわれるわけではない。
 佐倉宗吾の義民伝も史実とかなり違う。たとえば宗吾が将軍に直訴したという事実はないとされる。しかし、佐倉宗吾の義民伝は全国各地の百姓一揆や自由民権運動などを鼓舞した。これが重要だ。津賀さんも、史実と違うところがあるので創作民話とした。民話は歴史書や歴史小説、ドキュメンタリーとは違う。事実と違っているところがあってもかまわない。


義民伝が民衆運動で大きな力を発揮

 佐倉宗吾の伝説についてはこんな指摘がある。
    〈18世紀の中ごろから天明期にかけて、全藩的な大農民蜂起・暴動が、毎年10件前後もおこりだした。1738年奥州浅川の農民8万4千人は領主の追討軍と戦い、その翌年但馬の生野では、農民と銀山鉱夫の連合隊は近隣12藩の大軍をむかえてたたかい、1754年筑後久留米では、20万人の農民が、城中の鉄砲を猪狩りのためと称してあらかじめ借り出しておいてから蜂起した。1756年には大一揆が16ヵ所でおこり、それまでの最高にたっした。
     この時期に有名な佐倉宗吾の伝説があらわれ全国にひろがる。17世紀中期に下総佐倉藩領公津村の名主宗吾が、全農民を代表して領主の虐政を将軍に越訴し、農民を救うが、宗吾夫婦はもとより幼い子まで死刑になるという。この事実はないが、公津村の名主惣五郎は実在する。恐らく彼を主役とする何らかの農民闘争の事実が民衆の間に語りつがれていくうちに、各地の一揆の体験がおりこまれ、壮烈な農民英雄の物語になったのであろう。〉(井上清『日本の歴史(中)』岩波新書)

    〈動かしがたい虚像というのはどういうことかというと、実像に匹敵する力を持ったということです。観客は、木内惣五郎のことを調べてみようなどとは思っていませんし、それはどだい無理な話です。話が生き生きとしていておもしろければ、それでいいのです。心がわき立ってくれば、それで救われるのです。そうなると、むしろ実像はどうでもいいというところまで来てしまいます。そこに佐倉惣五郎の大きさがあるわけです。また、明治に入ってからでも、自由民権運動の壮士たちは、佐倉惣五郎を賛仰(さんぎよう)していました。彼にあやかって、新政府の権力に打ち勝ちたいと考えていたようです。〉(角川書店編『日本史探訪(17) 講談・歌舞伎のヒーローたち』角川文庫)


佐倉宗吾伝説のあらすじ

 物語のあらすじはこうだ。
 江戸時代の初期、佐倉藩の百姓は暴政と極度の年貢取り立てで地獄のような苦しみをなめていた。一揆を起こすと一味全員が処罰される。そこで、名主の宗吾は単独で佐倉藩に救済を訴えた。しかし退けられる。万策つきた宗吾は、最後の手段として上野寛永寺に参拝する4代将軍徳川家綱に直訴した。その結果、佐倉領民は塗炭の苦しみから救われた。だが将軍直訴は重罪のご法度だ。面子をつぶされた佐倉藩主はきびしく処罰した。宗吾ははりつけになる。宗吾の幼い子ども4人も打ち首の惨刑に処せられた。
 この伝説は、嘉永年間(1848〜1854年)に歌舞伎で上演されて評判を呼んだ。以後も芝居や講談などでとりあげられ、広く知られるようになった。映画にもなった。絵本作家、斎藤隆介さんの創作童話『ベロ出しチョンマ』は宗吾伝説がモデルになっている。


年間100万人以上が参拝

 佐倉宗吾を祀る霊堂や神社などが全国に20か所以上ある。菅原道真のように歴史上の人物を祀る神社仏閣は全国に数多くある。だが、被支配者である民衆のひとりを全国各地で祀るのはほかに類をみない。
 成田市宗吾にある宗吾霊堂には全国から大勢の参拝客が訪れる。旅館も門前に2軒ある。境内には「宗吾御一代記館」もある。等身大の人形66体が13場面に配置され、宗吾伝説をパノラマで知ることができる。千葉県の発表によれば、2019年における宗吾霊堂の参拝客は121万人である。
(2022年3月)




佐倉宗吾父子の墓=成田市の宗吾霊堂、2022年3月6日撮影



暴政と極度の年貢取り立てにいきりたつ農民たちを説得する宗吾=宗吾霊堂の宗吾御一代記館第3景



宗吾が将軍に直訴する場面=同上、第11景



宗吾と子ども4人が処刑された刑場=同上、第12景







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