千葉の干潟を守る会代表 大浜 清
(2000年)7月21日に亡くなられた山下弘文さんの葬儀に、三番瀬保全運動を代表して大浜清さんが参列しました。
以下は、大浜清さんの追悼文です。
次々に水しぶきを上げて落下する水門。そのテレビ画面は日本中の人々の目を釘付けにし、胸を刺した。言うまでもない。諫早湾水門閉め切り強行の瞬間である。
「これで勝ったと思った」。山下弘文さんは胸を張って言う。普通、こうは言えないものだ。この国を操る人々は愕然とした。国の強権にたじろがない男がいた。国家的プロジェクトの悲惨と虚勢を国民の前にあばき出す寸鉄の言葉があった。大臣たちはよほどあわてたのだろう。「ムツゴロウの命と人の命とどっちが大事だ」などと声高に口走って、生命観の浅薄さを自ら暴露して見せた。
山下さんが予期したとおり、水門の水しぶきとともに国民の環境意識が変わりはじめた。「諫早」は、日本の開発行政のおろかさと、自然を守る市民の不屈の意志とをあざやかに対比して見せ、日本の環境運動のシンボルとなった。1991年以来、山下さんは、藤前の辻淳夫さんとともに、日本湿地ネットワークの代表として日本のラムサール運動推進者の一人でもあった。ゴールドマン財団は、1998年度の環境賞を彼に贈った。
その山下弘文さんが亡くなった。7月21日早朝、心不全であった。翌日の諫早での葬儀には三番瀬運動を代表して大浜が参列した。
葬儀には、干潟を守る運動を通じて結ばれた市民・学者など、全国からの人々が集まった。韓国湿地連合の金敬源さんも馳せ参じた。政治家・行政からの弔問も目立った。通夜には、菅直人(民主党)、川内博史(同)、岩佐恵美(共産党)議員らが駆けつけ、告別式では哲学者・梅原猛、ゴールドマン財団、環境庁など自然保護を代表する人々に混じって、長崎県知事、諫早市長からの弔辞も読まれた。対立する相手からも尊敬を受けていた。
山下さんは私たち三番瀬の運動にも力強いエールを送ってくれた。「この海をこれ以上一坪たりとも埋め立てさせてはならない」という彼の言葉は今も鮮明である。
もう一つ彼の言葉を思い出しておこう。「負けてもともと、勝ったら大ごと」。
山下さんは、干潟を守る運動のもっとも熱いマグマだった。「たたかわなくてはだめだ」という彼の声が、私たちの心をゆさぶる。
(2000年7月)
山下弘文さん
★関連ページ
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- 一坪とも干潟の消滅は許せない 〜子孫にすばらしい三番瀬の自然を残そう〜 (山下弘文)
- 山下弘文さんの思い出(牛野くみ子)
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