谷津干潟から三番瀬へ

〜千葉の干潟を守る会の活動〜



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1.千葉の干潟を守る会の発足

(1)「これ以上の埋め立ては止めさせよう」

 かつての東京湾は、有明海、伊勢湾などとともに広大な干潟をもっていて、魚介類の宝庫であった。しかし1960年代、千葉県は広大な干潟をかたっぱしから埋め立てた。市原市をはじめとし、浦安、行徳、船橋、稲毛(千葉市)と、つぎつぎと埋め立てていった。
 1970年当時、東京湾奥では、習志野と幕張の海岸だけが残されていた。ところが1971年、習志野市地先も埋め立て計画が認可された。
 そこで1971年3月、「これ以上の埋め立ては止めさせよう」と、「千葉の干潟を守る会」を結成した。「いのち豊かな東京湾を子孫に残すために」をスローガンにし、大浜清代表、石川敏雄さん(後の千葉県野鳥の会会長、故人)など17人で活動をはじめた。


(2)「遠洋漁業の時代だから、干潟はもう必要ない」

 同会が初めて県と交渉した際、県はこう言った。「もう内湾漁業の時代ではない。遠洋漁業の時代だから、干潟はもう必要ない」「千葉県は昔から貧乏だったから、工業化して儲けるのだ」と。日本人にはかり知れない恩恵を与えてくれた干潟を安易に埋め立ててしまうとは、何と恩知らずなものだと、メンバーは暗たんたる気持ちになった。
 以来、つぎつぎとふりかかる開発側の埋め立て計画に対して、そのつど、地元のみならず全国から多くの支援を得ながら「埋め立て反対」を叫んできた。石川敏雄さんは、「まさかこんなに長い間干潟を守る運動をつづけようとは思わなかった」と嘆いた。


2.谷津干潟を保存

(1)習志野市地先埋め立て反対運動

 運動のはじめは、習志野市地先の干潟埋め立てに反対する運動であった。街頭署名、デモ行進、市・県との交渉、請願・陳情を活発にとりくんだ。また、干潟の現地体験と、その有用性理解のための観察会などもひらいた。
 この運動は、習志野市の袖ヶ浦団地自治会や周辺町内会などの賛同や協力を得て盛りあがった。ところが、県は1972年に杭打ちを強行した。干潟がみるみるうちにつぶされていった。
 その悔(くや)しさから、海をにらむ子どものポスターが生まれた。通称「寄り目のハゲ坊主」である。習志野市袖ヶ浦団地の3000戸の窓に吊るされたこのポスターは、1976年に開かれた「第2回全国干潟シンポジウム」のシンボルマークとなった。いまも千葉の干潟を守る会のマークになっている。


(2)谷津干潟を保全

 千葉の干潟を守る会の奮闘もむなしく、習志野市前面の広大な干潟は埋め立てられてしまった。しかし、敗北はムダではなかった。当時、「大蔵省水面」と呼ばれていた谷津遊園前面約50haの海域は、かつての塩田用地として大蔵省管轄地であった。そのために埋め立てを免れた。
 習志野地先海岸の埋め立てがはじまると、エサ場を失ったシギ・チドリ類などの水鳥たちが「大蔵省水面」の干潟に集まってきた。ここは全国有数の渡り鳥渡来地となった。
 千葉の干潟を守る会は1974年、「大蔵省水面」の干潟を「谷津干潟」と命名し、保全運動をすすめた。谷津干潟の南部の埋め立て地を含めた200haを「自然教育園」として残すよう市民に訴え、市や県にも働きかけた。この運動は市民から好意的に受け止められた。
 ところが、当時の習志野市長は、谷津干潟を埋め立てて住宅用地などとして使用する計画をたてていた。市議会の与党会派も、谷津干潟の保存を求める市民の請願に反対した。また、「干潟は臭(くさ)いから埋めてしまえ」という一部市民の要求も根強くあり、谷津干潟の保全はやさしいものではなかった。
 その後、習志野市長の交代を機に、埋め立てを阻止することができた。教育園構想は、20年後の1994年7月、谷津干潟自然観察センターの開設によって実現した。


(3)湾岸道路建設反対運動

 1974年、谷津干潟のど真ん中に湾岸道路(東関東自動車道)を通すという計画が明らかになった。これにたいし、習志野市袖ヶ浦・谷津と船橋市若松などの住民が「袖ヶ浦・谷津・若松・稲毛 公害から住民を守る連絡会」を結成した。「千葉の干潟を守る会」も連絡会と共同し、谷津干潟保全と湾岸道路反対の運動をすすめた。
 運動の内容は、谷津遊園閉鎖後の住宅建設計画問題、干潟内の京成所有地埋め立て問題についての住宅都市整備公団との交渉、三角地(干潟を斜めに横切る湾岸道路・JR京葉線のため西南部に残った三角干潟。3ha)を確保するための対企業庁・対県交渉、国設鳥獣保護区指定運動(88年11月に実現)などである。
 運動の結果、道路計画は変更され、海側(南側)へそれることになった。また、道路の北側に100m幅の緩衝帯を設けることになった。この100メートル緩衝帯は、谷津干潟の鳥をはじめ、周辺住民の生活環境にとって重要な意味をもっている。


3.谷津干潟から三番瀬へ

(1)「朝日 海への貢献賞」を受賞

 千葉の干潟を守る会は、木更津市の金田海岸に広がる盤洲(ばんず)干潟(小櫃川河口干潟)の観察会など、干潟の価値を多くの人に知ってもらうための啓蒙活動や、シギ・チドリ等の一斉カウント、水質調査などの活動もつづけた。
 また、第2回干潟シンポジウム(76年)、全国自然保護大会(83年)、国際干潟シンポジウム(92年)などの、大きな会議の主幹または共催をし、運動の輪を全国に広げ、諫早や藤前など多くの団体とも連携してきた。
 こうした活動の成果として、1993年、谷津干潟は念願のラムサール条約登録湿地に指定された。1997年11月には、千葉の干潟を守る会が「朝日 海への貢献賞 ボランティア賞」(朝日新聞社主催)を受賞した。


(2)三番瀬保全運動

 千葉の干潟を守る会は、三番瀬の新しい埋め立て計画(市川2期・京葉港2期埋め立て計画)を止めさせる運動にもとりくんだ。
 この埋め立て計画が策定されたのは1993年である。ところが、行政は埋め立て計画を県民に知らせなかった。また、「三番瀬」という名称を禁句とした。そのため、県民は、埋め立て計画はおろか、三番瀬の存在すら知らなかった。
 1996年2月、千葉の干潟を守る会などは埋め立て計画の撤回を求める署名運動を開始した。行政が知らせようとしない開発計画を市民に知らせ、三番瀬の貴重さと、それを失うことの意味を考えてもらい、そして一人ひとりの意思を表明してもらうことがそのねらいであった。また、「三番瀬をラムサール条約登録湿地にして保全しよう」とよびかけた。
 しかし、運動は早々に困難にぶつかった。一部の人が署名運動に反対し、別れていったからである。「計画の撤回や埋め立て中止は県が受け入れず、今後、県と円滑な話し合いができなくなる」「また、署名の結果、“市民の意思”に縛(しば)られてしまうのは受け入れられない」という理由であった。
 この人たちは、のちに市民団体「三番瀬フォーラム」や「三番瀬研究会」を結成した。また、「三番瀬環境市民センター」という名のNPO法人も設立した。これらの団体は、県が1999年6月に発表した101haの三番瀬埋め立て計画(縮小案)を容認した。そのリーダーの一人はこう述べている。「面積と形状をみると、我々の対案と極めて類似したものになった」(『朝日新聞』千葉版、1999年6月11日)と。
 また、三番瀬フォーラムが著した『三番瀬から、日本の海は変わる』(きんのくわがた社、2001年8月発行)にはこう記されている。
 「私たちはこれまで、県の埋立計画に対して『反対』といったことは一度もない」
 さらに、これらの団体は、行政(市川市)と密接な関係をむすび、猫実川(ねこざねがわ)河口域の人工改変(人工干潟化)を主張している。また、三番瀬のラムサール条約登録に反対する意見書を千葉県知事に提出した。


(3)三番瀬埋め立て計画を撤回させる

 千葉の干潟を守る会は、東京湾奥部に残された貴重な自然干潟と浅瀬を守り抜くことをきめた。また、その運動を多くの市民とともにすすめることにした。
 1996年7月、「三番瀬を守る署名ネットワーク」を結成し、埋め立て中止を求める署名運動を大々的に展開した。自然保護団体だけでなくレジャー団体(つり、ヨットなど)、地域住民団体(団地自治会など)、消費者団体(協同組合、有機農業グループなど)、労働組合(県、市職員、教員など)に加盟をよびかけた。多数の市民が熱心に活動を展開し、三番瀬の名は急速に広まった。
 1998年4月、第1次として12万人分の署名を千葉県知事あてに提出した。さらに同年10月15日、第2次分として2万5000余人分(ブリスベンからのものを含む)を提出した。最終的に、署名は2001年10月、30万に達した。

 2001年春の千葉県知事選では三番瀬埋め立てが最大の争点になった。朝日、読売、毎日の3紙が選挙中におこなった県民世論調査では、いずれも「三番瀬埋め立てに反対」が過半数を占めた。それをみた堂本暁子候補は、選挙戦の後半になり、「三番瀬埋め立て計画の白紙撤回」を公約に掲げた。見事に当選した。
 堂本知事は就任後、埋め立て中止をしぶった。しかし、埋め立て中止を求める運動と世論の高まりにおされ、2001年9月、埋め立て計画撤回を表明した。その際、堂本知事は「白紙撤回は県民の意思です」と述べた。30万署名が動かしがたい重みとなったことは疑いない。
(2011年11月、文責・中山敏則)








千葉の干潟を守る会は1971年7月11日、千葉市内で「自然保護集会」を開催。
集会後、市内をデモ行進し、「埋め立てを中止せよ」「干潟を守れ」「自然を返せ」
と訴えた。記事は翌日(7月12日)の『毎日新聞』千葉版。



千葉県が埋め立て工事着工と立入禁止の看板を設置=1971年12月



習志野市地先の海岸で潮干狩りをする市民=1973年5月



海をにらむ子どものポスター「寄り目のハゲ坊主」。
干潟がみるみるうちにつぶされていくくやしさから生まれた。



海に面していた習志野市袖ヶ浦団地では、3000戸の窓に
「埋立反対」のポスターが吊るされた。ポスターには
「寄り目のハゲ坊主」が描かれた=1972年撮影



3000戸が「埋立反対」のポスターを窓に吊した。



習志野市袖ヶ浦団地で開かれた埋め立て反対の市民集会=1972年6月



埋め立ての危機にさらされていた当時の谷津干潟=1975年5月



同上


「谷津干潟を保存し、自然教育園に」を訴える写真展=1975年



習志野市内で「谷津干潟を保存し、自然教育園に」の署名活動=1975年



千葉駅前でも「谷津干潟を保存し、自然教育園に」を訴え=1975年



同上



同上



谷津干潟の自然観察会=1975年



工事中の湾岸道路。当初は谷津干潟のど真ん中を縦断する計画であったが、
反対運動などにより、谷津干潟の南側(写真では左側)を通過する形になった



ラムサール登録後の谷津干潟



現在の谷津干潟




1993年発表の三番瀬埋め立て計画(740ha)




1999年6月発表の三番瀬埋め立て見直し案(101ha)





市民500人が三番瀬で手をつなぎ、「人間の鎖」で埋め立て計画撤回を訴えた=1998年11月



















『朝日新聞』1998年11月17日




三番瀬埋め立て中止を求め、市川市の繁華街でデモ行進=2001年3月



歌手の市野由美子さん(故人)も県内各地でミニコンサートを
開き、三番瀬保全を訴えてくれた=2000年8月、成田市内





『毎日新聞』2001年3月20日




『読売新聞』2001年3月21日




『朝日新聞』2001年3月22日






三番瀬大観察会にて






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