埋め立てて漁業復活というナンセンス
〜あえて言う、「新三番瀬」の夢と嘘〜
千葉の干潟を守る会 大浜 清
千葉県環境会議の補足調査専門委員に行徳漁協組合長平野寅蔵氏が任命された。氏は「埋め立てを認める代わりに、沖合に漁場を造成してもらい、漁業の復活をはかる」という「新三番瀬計画」論者の一人である。その意見は、前号に朝日新聞の記事紹介として掲載したので、ここではそれついての反論を述べる。
私は平野さんに考え直してもらいたいし、私たちの考え方を漁民にも、環境委員にも知ってもらいたい。
「新三番瀬計画」の論旨を要約するとこうである。
- 周辺の埋め立て、潮の流れが悪くなり、海が死んでしまった。
- だから三番瀬の埋め立ては認める。
- ただし漁業を鍵けるために、沖合に新三番瀬を造成してもらう。その面積は、三番瀬埋め立てに見あって、浅瀬約390ha、ノリ養殖場約400ha。
1.三番瀬は本当に死んだのか?
冬、船橋・行徳の海は一面、ノリのベタ流し網とノリひびだ。その間を縫って釣り舟が出ている。そして巻網船、底曳船、春の潮干狩。干潟も浅場も日本一といってよい水鳥の生息地だが、それも底生動物や魚の宝庫なればこそだ。これを死んだ海と言うのだろうか。
浦安・行徳や習志野の埋め立て以前にくらべて、海がダメになったというのはやさしい。漁師でなくてもわかりきっている。だからこそ私たちは1971年に埋め立て反対運動をおこした。私たちのスローガンは「東京湾を死の海にするな」であった。
私たちは「習志野の幕張海岸の埋め立て中止」県議会請願、「東京湾の埋め立て中止と干潟保全」国会請願を行った。幸い国会請願は採択され、1973年、千葉県は大規模埋め立てによる臨海開発を方針転換した。盤洲埋め立て計画解除、富津埋め立て計画縮小、そして京葉港2期・市川2期計画を凍結した。東京湾における生命の生産場、浄水場はかろうじて残った。三番瀬は手傷は負ったが死にはしなかった。東京湾も死にはしなかった。
大事なことは、三番瀬がいま東京湾でどんなに大きな役割をはたしているか、である。埋め立ては海殺しだ、ということである。
「三番瀬はもう死んだ海になったから埋めて使え」というのはあんまり素人だましではないだろうか。素人の市民が海を守れというのはお節介だとか、あの時ひと思いに埋めてもらえばよかった、というなら話は別だが。でも、原発だって素人の心配の方が当たるのですよ。
もちろん、埋め立て後遺症はあちらこちらにあって、東京湾を半病人にしている。行徳の奥が潮の通りが悪くなったのは当然である。最大の癌(がん)は青潮(無酸素水)だ。青潮は埋め立て用の土砂採取跡や浚渫された航路からやってくる。この癌を手術するのには土砂採取跡を埋めもどすしかない。千葉〜浦安の埋め立て地に盛り上げたのと等量の土砂が要るのである。生きものを養い、青潮とたたかっている干潟を埋めてしまったり、新しい海砂採取や浚渫をしたらどうなるか。
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」よりももっとひどい話だ。
2.「新三番瀬計画」ははたして可能か?
自然にまさる人工はない。人工干潟はどこもそう簡単にうまはいっていない。ことに山砂を使うとむずかしい。そこで平野氏は海砂を使うという。「新三番瀬計画」の提唱者である元船橋漁協組合長森晄一氏は、現三番瀬の砂がよいからこれを使え、という。語るに落ちたとはこのことである。
また海砂採取は莫大な無酸素ヘドロを吐き出し、まきちらすことをお忘れなく。一体もっといい「新三番瀬」がどうして保証できるのか。
新三番瀬をつくるには、沖を埋めなければならないから、ただの三番瀬埋め立てよりはるかに大量の土砂が必要である。莫大な土砂をどこから持ってくるのか、海からか山からか。それに現三番瀬の砂を移すとすれば、たいへんな自然破壊と大がかりな工事と巨額の出費になってしまう。誰の負担でそれをやってもらうおつもりか。
干潟の砂は川の流れと潮の流れがもたらしてくれたものである。これに逆らえば浸食されてしまう。人工干潟の困難はそこにもある。江戸川デルタの先端であった浦安埋め立て地の線より前に突き出して人工干潟や浅場を造成しても、毎年、新しい砂と多額の維持費をつぎこまなくてはなるまい。海を知っている人なら先刻ご承知のはず、その見積もりも出すのが公正で科学的な議論ではあるまいか。
もう一つ。港湾を拡張すれば大型船舶の錨泊地その他新たな海面占有が必要となるだろう。マリーナを設けなければ釣り船、レジャーボート、ヨットの航行量はふえるだろう。現在でも船舶によるノリ網被害は絶えない。ボート側の人身事故さえ起こっている。三番瀬を埋めて、その分の漁場を前に張り出すなど、漁民側、船舶側双方にとって問題のはずである。東京湾は狭い。海は漁民だけのものではないという問題に直面するだろう。
「新三番瀬」は非常に勝手な夢にすぎない。その夢に乗せられた人があとで幻と知っても、時すでに遅い。三番瀬は帰ってこない。
3.埋め立てを認めてよいのか?
〜平野寅蔵さんへ〜
私は「新三番瀬計画」は反対だけれども、平野さんの「我々は海以外に生きる場はない」という言葉は信じたい。もしそうだとしたら、私の論調は大変失礼かも知れず、誠意をもってお詫びしなければならない。しかし私の論旨はまちがっているとは思わないし、腹を割って話したい。
1970年、富津漁民は漁業権放棄を決定した。しかし少数派ではあったが、あくまでも海に生きたいという意志をいだいた人々は再結集して新富津漁協をつくった。補償金を海につぎこんで、消波柵を立て、ノリの新漁場をつくり、新漁法ベタ流しを開発して漁業を再建した。その成果は内湾漁業全体へのはげましとなった。新富津漁協の人々は、まさに文字通りの背水の陣からそれを成しとげたのである。そのことを私は決して忘れないし、深い敬意をもって語らずにはいられない。
平野さん、あなたが海を愛し、海に生きたいと願っているなら、「新三番瀬をつくる」という条件をつけたとしても、埋め立てを認めるのはやはりおかしいのではないですか。
なぜ、まず青潮を退治しよう、青潮を生み出したような埋め立て政策に反対しようと言わないのですか。今の三番瀬をもっとよくしようと言わないのですか。今の三番瀬を捨てても新しい漁場をつくってもらえばいい、というのはあなたまかせではないですか。海は守れない、ふるさとはなくなってしまうのではないですか。埋め立て容認は海殺しへの加担ではないですか。
平野さん、あなたが海を愛しているなら、私たちは仲間になりたいのです。
私ははじめ鳥が好きになりました。鳥好きの中には、あちこち廻り歩いて鳥を見さえすれば満足してしまう人もいます。けれど私は鳥が住みかをうばわれ追いつめられてゆくのをだまって見てはいられませんでした。海がひどい有り様にされていくのをがまんできませんでした。私たちは、自分の町の習志野の海が埋め立てられていくのがくやしくて、くやし涙を流しました。せめて谷津干潟だけでも守ることができたのは、本当にくやしさを味わった人たちがいたからです。谷津干潟を自分のふるさとと思い定めた人たちがいたからです。しかもその多くは新しい住民でした。彼らは埋め立て反対の行動を通じて、自分が習志野市民だという実感にたどりついたのです。
私たちは、海を守るには中核に漁民がいなければならないと思っています。
平野さん、一緒にやりませんか。
(1996年1月)
千葉の干潟を守る会の会報『干潟を守る』第64号(1976年1月発行)に掲載
★関連ページ
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